☆ 復讐を超えて ☆


 クリスマスが近づいている。しかし、イエスの教えは守られていない。

 拉致被害者家族会が北朝鮮への経済制裁を政府に求めている。家族の怒りや悲しみは理解できるが、制裁を要求する声には違和感がある。制裁により北朝鮮で囚われている家族に害が加わることはないか、心配ではないのだろうか。「金正日に土下座をすれば娘を返してもらえるというのであれば、今すぐにでも北朝鮮に行き金正日に会いたい。」これが肉親の気持ちではないのか。怒りと焦りに駆られて、強硬派が主導権を握り、家族会全体がそれに引きずられていると感じられてならない。家族との再会、日本への帰還実現のためにも、ここは冷静な話し合いの場を求める方がよい。性急な制裁は悲劇を繰り返すだけだ。

 いつまで経っても、イスラエルとパレスチナの紛争が解決されない。和平の機運が高まることがある。しかし、その都度強硬派が台頭して過激な行動に走り台無しにする。憎しみの連鎖は断たれることなく、今また殺し合いが始まろうとしている。強硬派は正義を主張するが、殺し、殺されて、何の意味があるのか、平和的に話し合うことが何故できないのか。憎しみと復讐心に囚われて袋小路に陥っているとしか思えない。

 「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい。」イエスは何を人々に訴えたかったのか、何を教えようとしたのか。

 憎しみを、復讐心を捨てることを教えようとした。愛する人を殺されたとき、殺害者を恨み復讐するのではなく、愛する者を失った者の悲しみをよく考えて、私は決して他人に自分と同じ悲しみを与えることはしない、私は決して人を殺さないと誓うこと、それこそが人としてなすべきこと、神の愛であることをイエスは教えようとした。イエスは、憎しみに駆られる人々の言うままに、一切抵抗せず、鞭打たれ、十字架に架けられこの世を去った。自らの生と死を以って、愛とは何であるかを人々に知らしめた。憎しみを克服して、復讐を放棄すること、そのとき初めて地上に神の国が実現する。

 しかし、偉大なるイエスの生き様から人々は学ぼうとしない。独りよがりな正義に固執して人を罵り脅かそうとする。そして今も憎しみの連鎖は留まるところなく広がっている。

 科学技術が発展して産業が拡大し、社会的な諸制度が整備されただけでは、争いはなくならず、世の中は平和で豊かにならない。イエス、ソクラテス、仏陀、ムハンマド、ガンジー、これらの聖人の教えと実践から真剣に学び、自らをより高い場所へと導く努力をしなくては真の幸福は得られない。

 筆者はもとより、平凡な人間がイエスのように生きることはとてもできない。しかし、イエスの教えと実践から少しばかりは学ぶことができるのではないか。クリスマスにイエスの生き様を思い浮かべてみてもよいだろう。


(H16/12/20記)


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