☆ 命の儚さ ☆


 台所で蛇口を捻ったら、流しの下に潜んでいた小さな蜘蛛が水の流れと一緒に下水に呑み込まれていった。別に私は蜘蛛を殺すつもりではなかった。だが、おそらく、あの小さな蜘蛛の命は永遠に失われたに違いない。

 人は、蜘蛛よりずっと大きく知能も高い。だが、突き詰めれば、蜘蛛と同じではなかろうか。産業を興し、科学技術を発達させ、身の周りに堅固な要塞を築き上げて、身の安全を図ってきたが、所詮大いなる自然の前では、小さな蜘蛛と変わるところはない。自然には何の意図もない。人を傷つけたり、殺したりする意思は全くない。それでも、そのほんの僅かな力の働きだけで人の命は損なわれていく。人の命は儚い。

 スピノザという17世紀の哲学者は、「永遠の相の下にみる」という言葉を残した。人間から見れば理不尽、不運、偶然にみえる出来事も、永遠の相の下で見れば、すべて必然だとスピノザは言う。下水に流された蜘蛛からみれば理不尽な出来事も、私の立場から見れば、蛇口を捻ったときにすべてが決定された必然的な出来事となる。人間も、また、永遠の相つまり神の立場から見れば、定められたとおりに生きて、死んでいくしかない。

 多くの宗教は、神が人間を中心に世界を作られたかの如く語っているが、本当は全能なる神にとって人間などないに等しい。私たちが足の爪を作る細胞を気に留めないように、神も人のことなど気に留めない。

 人間は有限の存在だから、無限の神と合一することは決してできない。だから、悲運に翻弄される運命にある。だが、神への信仰に生きることができる者は、悲運を自分に与えられた物として、それをあたかも神の配剤であるかのごとく認めて生きていくことができるだろう。これがスピノザという人の信仰だ。

 スピノザの信仰を宿命論、人間の努力の意義を否定するものだと批判する人も居るかもしれない。しかし、今、人間は些か自分たちの力を過信して、道を間違っているのではないか。命の儚さに思いを巡らせながら、自分たちの生活態度や考え方を見直すべきではないだろうか。


(H16/11/6記)


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