一万八千年前まで、身長1メートル程度で現生人類より一回り(二回りくらいか?)小さい人類の仲間が、インドネシアに住んでいたとネイチャー10月28日号が伝えている。地上もまだまだ謎に満ちている。 小さいからと言って頭が悪いとは限らない。もしかしたら、今は滅んでしまったこの小さな人たちは、現生人類より遥かに賢く、質素で平和に暮らしていたかもしれない。それを、でかくて凶暴な現生人類が力で滅ぼしてしまったのではなかろうか。 現生人類は、科学技術の産物を兵器に使い、平気で人殺しをして、自然を破壊する。自分の身が危険に晒されると大騒ぎをするくせに、他人が殺されたり病気になったりすることには無関心。欲の皮ばかり突っ張っていて、却って心が貧しくなっている。地震の予知すらできないのに、科学で何でもできると根拠もなく信じている。 こんな按配だから、現人類は高級な生物とはとうてい言い難い。その証拠に、偉大な宗教の聖典も、古今東西の賢人や哲人たちが残した著作も、人類が凶暴で、嘘つきで、他人を犠牲にすることを屁とも思わない困った存在であることを語っている。道徳とはこの困った動物を飼いならすために作り出されたものなのだ。先進国の人間が誇る現代の民主制度と基本的人権思想も、人類の叡智を示すものと言うより、争いに歯止めが効かなくなると困るから妥協の産物で作り出されたものだと言えなくもないだろう。 小さな人たちが凶暴な現生人類に滅ぼされることなく、今も生きて地上で繁栄していたら、どうだっただろう。生命と種を維持するために最低限必要な殺生しかせず、自然が豊かで、それでいて高い文明を持ち、かつ平和な世界が存在していたかもしれない。争いがないから、法律などというものは必要なかったかもしれない。 もちろん、これは筆者の勝手な想像で何も根拠はない。だが、現生人類とは異なる小さな人の存在は、現生人類の性質、たとえば好戦的で利己的な性質が高度な文明社会形成に不可欠だったという近・現代思想にありがちな考えに疑念を抱かせる。今回の発見は、近視眼的な物の見方に囚われている現代人に、遠くを観る眼が求められていることを教えているのかもしれない。 了
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