ニーチェは男女差別論者だ。「女に選挙権を与えるなどバカげている。」などという言葉を平気で口にする。だが、ニーチェは普通の男女差別論者とは違う。ほとんどの男女差別論者は、男が女より優れているから男性上位になるという論理を展開する。しかし、ニーチェは、男が女との戦いに勝ったから男が女を支配している、好きこんでその勝利を手放すことはないと主張する。ニーチェは男の優位性などを信じているわけではない。 だから、フェミニズムも案外ニーチェには寛容だ。ニーチェの考えはジェンダー論に繋がるところがある。闘争に勝った男が支配する社会体制を作ったというのがニーチェの考えであり、これは正にジェンダーとしての男の支配を意味するからだ。 ニーチェは、利他行為あるいは自己犠牲を嘲笑う。『そんなものは立派な行為でもなんでもない。人間は群れをなして生きる動物だから、集団のために自己を犠牲にするという本能を生まれつき持っている。自己犠牲、利他行為などはその本能の現れに過ぎない。寧ろ、課題はどうすれば本物の利己主義者になれるかということだ。』これがニーチェの主張だ。 真の利己主義者は、自分の優位を確信して、弱い者を平然と打ち倒す。そのような強者=真の利己主義者こそ、人類を高みへと導く者である。ニーチェは、だから、強者が弱者を抑圧することは権利であり義務である、それこそが人間を向上させるとすら主張する。 ニーチェは、強者が弱者を抑圧する権利と義務を有するという主張から、20世紀前半はファシズムやナチズムの指導的な思想として取り上げられた。 だが、ニーチェが、強者は弱者を打ち倒すべしという主張と同時に、集団のために自己を犠牲にする行為を笑うべきもの、人間の劣等性を示すものだと主張していることに注目する必要がある。これはファシズムなどあらゆる独裁思想に対する最大の挑戦だからだ。 要するに、ニーチェの思想を独裁思想と見ることもできるが、独裁思想への最強の敵と見ることもできるということだ。独裁は、体制と支配的思想への殉教を人々に強要することで成立する。だから、自己犠牲を笑うべきものと捉えるニーチェは独裁者にとっては最も厄介な存在だ。却って人民やプロレタリアート大衆への忠誠を求める共産主義者のほうが自分たちに遥かに近いことを独裁者は知るだろう。左翼から右翼へ、あるいはその逆の転向は珍しいことではない。その背景には自己犠牲を強いる精神、自己犠牲に酔いしれる精神が潜んでいる。 戦前とは逆に、戦後思想は主としてニーチェを反独裁の文脈から理解してきた。これを、右翼的ニーチェ像から左翼的ニーチェ像への変換として捉えることもできるだろう。だが、左翼的だとか右翼的だと言うこと自体が、ニーチェ的な視点からすれば、笑うべきドグマだということになろう。 ニーチェは実にアンビバレントだ。男女差別論者であると同時に、男女差別の根拠など存在しないことを明らかにする反男女差別論者でもある。強者が弱者を打ち倒す権利と義務を擁護して独裁へと人々を誘惑する思想家であると同時に、独裁体制への最強の抵抗者でもある。 いや、ニーチェは、男女差別論者を演じることで、男女差別論には何の根拠もないことを示し、独裁体制へと人々を誘惑することで、独裁は最も愚劣な政治体制であることを示そうとしているのかもしれない。 パロディスト・ニーチェ、それが本質なのだろう。ニーチェ本人が自分をどう評価していようと。そして、ここにこそ、凡百の思想家ではとうてい及びもつかないニーチェの魅力がある。 了
|