☆ 現代と記号の世界 ☆


■記号の本質

 記号の本質は恣意性と流動性にある。机と呼ばれる物を椅子と呼んでも一向に構わない。机が机と呼ばれるのは恣意的な規則でしかない。犬という記号は普通動物の犬を意味するが、権力者の手先、警察官などを意味することがある。記号は流動的だ。
 ごく平凡な美人女優の一人に過ぎなかったマリリン・モンローは、数奇な運命と時代背景の下、類稀なるセックス・シンボルとして祭り上げられた。ここにも記号の持つ恣意性と流動性を見て取ることが出来る。同時に、記号の意味が対象そのものの特徴ではなく、状況により決まることが分かる。恣意性と流動性は社会的な関係あるいは構造に支えられている。

■現代における記号

 長嶋茂雄は現役時代からスーパースターだった。だが、長嶋という記号の真価は引退後に始まる。長嶋は決して名監督とは言えない。有り余る戦力を擁しながら優勝を逃したことは数え切れない。それなのに、人々は長嶋を神格化してきた。巨人軍が球団史上初めて3年連続して優勝を逃した年、長島は解任された。成績を考えれば当然の処遇だったが、人々は激怒し読売新聞の部数は一割以上落ち込んだと言われている。今回のアテネでも、マスコミは最後の最後まで長嶋ジャパンと言い続けた。長嶋は失策をしても決して非難されることはなく、むしろ益々神聖なる存在へと昇華していく。オーストラリア戦二連敗は、選手が高給取りのプロ集団であったことを考えれば、ぼろくそに叩かれて当然だったはずなのに、長嶋の選手への賞賛がそれを完全に抑制した。おそらく、長嶋茂雄というシンボルは戦後最も強力で長続きしている記号と言えるだろう。

 小泉首相も、一時期かなり強力な記号として機能した。首相になった当初、小泉という記号は「改革」を意味した。だが、最近は威光もすっかり衰えたようだ。いまや、小泉という記号は小泉以前の首相と変わらない永田町ムラ社会の代表でしかない。

 小泉氏と長嶋氏とはどこが違うのか。政治家とスポーツ選手の違いだろうか。しかし、吉田茂や田中角栄という記号は今でも強力だ。落合という記号は、王や長嶋を超える実績にも拘わらず、いまや輝きはない。

 時代が違うのだ。イチロー、松井、谷亮子なども現役を引退すれば速やかに人々の記憶から消えるだろう。美空ひばりと、浜崎あゆみや宇多田ヒカルを比較してみよう。浜崎や宇多田が、美空のようにいつまでも人々の心に残ることが考えられるだろうか。日本だけではなく世界を見渡しても状況は同じだ。才能や業績では上回っても、ベーブ・ルース、モンロー、ビートルズ、ケネディを超える者が歴史の舞台に登場することは最早ない。

■マスメディアとIT

 これは、マスメディアの拡大とITの浸透が世界の記号化を加速していることから生じている現象と言える。

 マスメディアの発展が、すべてを白日の下に晒し、神秘のベールを剥ぎ取った。ITの浸透で、あらゆる情報はすぐに広まる。隠された世界は存在しない。しかも、情報が迅速に伝わることで、情報はすぐに古くなる。情報が過剰になることで古い情報はすぐに捨てられる。

 確かに、政治は今でも隠された場所で行われているだろう。ショービジネスやスポーツの世界も表の顔と裏の顔が共存し続けている。だが、「隠されているという事実」が隠されていない。「本当の意味で隠す」とは、隠していることが知られていない、ということで成り立つ。隠していることが分かってしまえば、内容が分からなくても90%は公知の事実となる。

 すべのものが白日の下に晒され、情報がすぐに消費されてしまう時代には、カルト集団の中でしか、記号中の記号と言える「カリスマ」は生まれない。小泉、イチロー、宇多田、すべてほんの一瞬の輝きでしかない。カリスマという言葉が流行すること自体、カリスマが存在しないことを物語っている。

 だが、長嶋茂雄、田中角栄、美空ひばり、石原裕次郎などという記号は今でも輝いているではないか。こう言われるかもしれない。
 後の三人はすでにこの世を去っているから輝いている。長嶋は、人々が敬して遠ざけていることで輝きを失わない。長嶋の病気があれほど注目されたのに、肝心の病状はほとんど明らかにされていない。人々もマスコミも、天皇陛下のご病気を語るかのごとく遠慮しながら報道して、それについて語っている。長嶋は隠されているのだ。

■記号は如何にして強大なものとなるか

 かつては、情報の伝達は時間が掛かり不確かだった。情報があること自体が知られていないことが多かった。そういう状況においてのみ、カリスマは誕生する。長嶋茂雄やビートルズの時代には、まだカリスマが生まれる状況が存在しえた。だが、最早存在しない。

 カリスマという強力な記号は、記号が少ないところで誕生する。大多数の人と物が、人と物であり続けるところで、初めて、時間を掛けて強力な記号が歴史の中に生まれてくるのだ。記号の持つ象徴作用は、大量の記号の中ではなく、記号化されない人と物の中で生まれ、そして最も大きな効力を発揮する。

 中国や韓国の人々がいまだに反日感情を露わにすることに日本人は驚く。「反日」という記号は、記号化されることなく歴史の闇に消えていった多くの中国、韓国、朝鮮の人々の中で強力に育まれたのだ。簡単にそれが消えるはずがない。いや、飼い慣らされることはあっても消えることはない。しかも、今という時代が軽薄で皮相的であるから、それを打ち消す記号も登場しえない。反日という記号とその強力で持続する作用は、記号作用の本質的な性質を露わにしている。

■記号から見る現代

 現代には、濃厚な記号化されない人と物はほとんど存在しない。ほとんどの人と物は清潔でスマートで肉体を感じさせない。マッチョなどは肉体のパロディでしかない。一瞬だけ輝く記号は至るところに存在するが、世代や時代を超えて輝き続けて、人々に直接的・間接的に巨大な影響を与えるカリスマはいない。

 このことを善いとか悪いとか言うことは意味がない。これは、人間という種の宿命だからだ。カリスマは社会を根本的に改革する力を持つ一方で、独裁と虐殺をもたらす厄介な存在でもある。中国の言葉に、「水が澄んでいるところには大きな魚は棲まない」というものがある。これは事実だろう。しかし、大きな魚がいることがよいことなのかどうかは分からない。

 時代の流れに逆らい、カリスマを生み出すような時代を再興することはできもしないし、出来たとしても好ましいかどうかは疑問だ。すべてを記号化してしまう世界は矮小で、およそ高貴という言葉が当てはまらない凡庸な世界だが、それを生み出すことが人間の本質ならば、それを肯定するしか道はないだろう。

 ただ、忘れてはならないことがある。すべてを記号化しようとしても、記号の背後には生身の人と物があるということだ。記号は、記号であることで記号であるのではなく、人と物であることを通じて初めて記号となる。だから、記号はいつでも人と物に裏切られる。記号が人と物を完全に制圧することはない。それは河豚の毒の正体が分かれば、河豚の毒で人が死ぬことがなくなると考えるのと同じくらいばかげている。人と物は、まずは生身の物質としてこの世に存在している。

 だから、私たちは周囲を巡らす記号の群れの背後に記号に還元されない物があることに注意が必要なのだ。唯物論とはそのことを教える思想として意義を持つ。


(H16/8/30記)


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