「re」という接頭辞には「再び」という意味がある。presentationは「いま、ここに、存在していること」という意味だから、re-presentationという言葉は、「存在が再度到来すること」という意味になる。ポストモダニズム系の哲学書でrepresentationを「再現前」と訳すことがあるが、それはこの意味だ。しかし、日本語では、普通こういう訳し方をすることはなく、大抵は「表現」と訳す。そもそも、「再現前」という言葉は、日本語としては極めて不自然な表現であり、哲学の専門用語として一部の人たちが使うだけのものでしかない。 しかし、英語やフランス語を母国語とする人たちには、presentationとrepresentationという対比は極めて自然なものであり、そこに、現前と再現前という意味合いを読み込むことは容易であり自然なことだろう。 事実、西洋哲学思想では、この両者の対比から、イデアとその写し、形相と質料、本質と現象、主体と客体、精神と物質などという二元論的な思考方法が生み出されてきた。そして、この二元論的思考方法は根強く生き残り、今でも西洋思想を支配している。 (注)presentationとrepresentationが、差異を保ちながらも、本質的には同じものの二つの現れであることから、この二元論は背後に一元論を抱え込んでいる。そのことを明確に示したのがヘーゲルである。「差異」と「同一」は差異であることにより同一なのだ。 70年代以降新しい哲学的潮流となっているポストモダニズムは、この二元論的思考を解体することを主要な目的としているが、そのことこそ、二元論的思考方法の根強さを証明している。そして、一部のポストモダニストたちが指摘しているとおり、この思考方法の根強さは、その言葉のあり方に基づいている。 一方、日本語には、このような二元論的な思考が定着するような言葉の対比が存在しない。花、生花、造花、これらは、花というpresentation、そのrepresentation、そのまたrepresentationだと言えなくもないが、こんなことを言っても、一部の哲学愛好家を除いては、全く意味のない駄弁だと笑われるだけだろう。事実、このような表現は言葉遊びに過ぎず、大した意味はない。 (注)西洋哲学は、西洋の言葉においてのみ、意味があると言ってもよいかもしれない。 私たちの思考方法は、言葉に強く影響される。無意識のうちに、言葉の形式から思考の形式が強制されることもある。バイリンガルの人は、話す言葉で考え方が変わると言われることがあるが、使用している言葉により思考が規制されるからだろう。 私たちが日頃感じている以上に、言葉は思考を強く支配するらしい。だから、人生や社会の在り方など哲学的な問題を考察するときには注意が必要だ。 その一方で、人間は自分の考えに固執しがちであるから、自分の思考を相対化するために母国語以外の言葉で考える習慣をつけるのは良いことだ。尤も、筆者のような語学音痴には、ちと無理なのが残念なところだが。 了
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