☆ プラトン型の男女共同参画社会? ☆


 男女共同参画社会の取組が各地で進められている。男女同権、女性の社会進出は抗いがたい時代の流れであり、その趣旨に反対するつもりは全くない。能力ある女性が社会の中枢で活躍することは大変に有意義なことだ。

 ただ、ジェンダーとしての男女の差が、すべて男性優位社会の産物であり、廃棄しなければならないものであると考えるのは極論過ぎる。

 プラトンは、主著「国家」で、男の仕事、女の仕事というものはない、すべての仕事を、男女両方がやるべきだと主張した。プラトンはこう論じる。「女も戦争に参加するべきだ。」、「男女が一緒になって裸で体操して身体を鍛えるべきだ。」なるほど、男女で仕事上の区別がないとすれば、これは当然の帰結ということになる。

 プラトンは、現代的な視点からすれば、男女平等論者ではない。「すべてにおいて男は女より優れている。」、「子供は男の精子から誕生するもので、女はただ腹を貸しているだけだ。」というのがプラトンの考えで、この点では、プラトンは筋金入りの男性優位主義者だ。とは言え、プラトンが男女共同参画社会の原点に位置するとみてもあながち間違いではあるまい。男女間の能力差を独断的に肯定する点を除けば、プラトンは、社会的な役割では男女の対等性を主張しており、現代の(急進的な)フェミニストたちの思想と一致する。

 しかし、こういうプラトン的な社会が好ましいのか疑問だ。

 プラトンは、男女が同じ仕事に平等に従事するべきだという主張に続いて、家族制度の解体を提案する。

 「子供が生まれたら、親から引き離し、教育専門の施設で共同教育する。誰が自分の子であるか、誰が自分の親であるか分からないようにしなくてはならない。すべての大人が共通の親であり、全ての子供が共通の子供である。このような制度を作るべきだ。」これがプラトンの家族制度解体論だ。このような家族制度解体論は、徹底的な男女同権論の必然的な帰結と言える。
 家族という制度が、男と女の役割分担を再生産している。幾ら、家族の外部で男女同権を実現しても、家族という場において、男と女、親と子供という非対称的な制度が再生産されてしまう。家族制度は、男女同権を実現するための最後の障害なのだ。これを解体してこそ、真の男女同権が実現される。おそらく、プラトン型のフェミニズムはここまでいく。家族という制度を肯定して、ただ男の育児参加を促進するというだけでは、完璧な男女同権は実現しない。

 しかし、子供にとって、両親が揃っていることの意義は、父親と母親が違うことにある。父親も、母親も、全く同じ立場で育児に参加し、共通の思想と感性の下で育児をするのでは、両親が揃っている意義はない。プラトンが主張しているとおり親子関係を解体した共同生活・共同教育制を実現するか、シングルマザーやシングルファザーの方が効率がよい。だが、シングルマザーやシングルファザーでは、親と子という非対称が残る。最終的には、プラトン型の共同生活・共同教育が理想の制度ということになる。

 徹底的な男女同権、男女格差の完全な解消を求めるとどうしてもこういう帰結になるように思える。かつて共産主義運動の中でプラトン流の共同生活・共同教育が実践されたこともある。

 だが、これは、余りにも人間という存在を単純化した考えだ。確かに、男女の区別の多くは恣意的な制度に過ぎず、将来的には解消されるべきものだろう。だが、人間は、社会体制を超えて、家族という集団で育てられ、社会の一員として成長していくべき存在なのだ。家族を解体したとき、そこに残るのは、同じ服を着て、同じ言葉を同じような口調で話す画一的な人間の集合体だけではないのだろうか。これまでの歴史的な家族制度は、多くの欠陥を孕んでいた。だからと言って、家族そのものが、人類が克服するべき桎梏なのだとは思えない。それは必要なものなのだ。

 カール・ポパーは、プラトンを独裁主義と批判した。共同生活・共同教育という一見したところ理想社会のようにみえる制度を主張するプラトンの背後には、人間の画一化、独裁者なしの独裁主義が透けて見える。プラトンが詩人追放論を主張するとき、理念の下に、人々を画一的な思考回路へと押し込もうとする意図が強く感じられる。

 人間は、すべての生物がそうであるように、不完全な存在だ。自分勝手で、気まぐれで、虚勢を張り、自分の優位を主張しようとする、そのくせ弱虫だ。どんなに歴史が先に進もうと人間がこのような不完全な存在でなくなることはない。家族という見渡すことができる範囲で共同生活をして、その中で、良くも悪くも個性的な個人がそれぞれの役割分担を保ちながら協調していく、そして子供たちはその中で自己を確立する。こういう緩やかな階層構造が存続することが人間社会にとって望ましい。

 現代の男女共同参画社会の推進者たちが、プラトン型の思考様式とプラトン流の思想の持ち主だなどと言うつもりはない。ただ、彼と彼女たちの(「彼女と彼たちの」と言うべきか)、ときとして余りにも攻撃的と感じられる主張を聞いていると、プラトン的な独裁思想がその近くにあるような気がしてくる。

 世の中、良い男もいれば、悪い男もいる。頑固な男もいれば、軟弱な男もいる。女に威張り散らす男もいれば、女に媚びを売る男もいる。女も同じだ。だが、そういう多様な個性が維持されてこそ、健全な社会が育まれる。男女共同参画社会の試みは評価するが、それに賛同しない者を頭から反動と決め付けるようなことはしないでほしい。もちろん、その一方で、歴史的な意義がある男女共同参画社会の試みを認めようとしない頑迷な思想の持主にも反省が求められる。




(H16/7/9記)


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