カントの道徳論は功利主義的な道徳論と対極的な位置にある。功利主義は行為の結果を重視する。「最大多数の最大幸福」が功利主義者の公準だ。 現代人の多くは功利主義的な道徳観を共有する。なぜ人を殺してはいけないのか。殺された人間は幸福量ゼロだ。殺人者も、たとえ捕まらなくても、いつも怯えて生きていかなくてはならないから不幸だ。殺人が許容されたら、人々は不安に苛まれながら生活しなくてはならない。殺人が肯定される社会は否定される社会より幸福量が小さい。だから、人を殺してはならない。こういう風に現代人は考える。 カントは、結果を考慮するべきではないと主張する。道徳は「それを守らないと不幸になるから守らなくてはならない」のではなく、端的に「守らなくてはならない」のだ。「正義は実行されなくてはならない。たとえ、それで世界が滅びようとも。」これがカントの道徳の原則だ。カントを道徳的原理主義者と呼んでもよいかもしれない。 カントの道徳論には同意しがたいところが多い。だが、功利主義的道徳は節操のない現状追認に堕落する危険性がある。「大量破壊兵器が発見されないことなど大した問題ではない。フセイン政権が倒れイラク国民は幸福になった。」などという理屈でブッシュ政権のイラク攻撃が肯定されかねない。 非武装中立を主張するとすぐに「侵略されたらどうする。」と反論される。だが、カントならこう言うだろう。「非武装中立が正義ならば、たとえ日本が滅びようとも、それを実行しなくてはならない。」 「そんなのは学者のお題目だ。責任ある政治家なら、理念のために日本を犠牲にするような真似はしない。」私もそう思う。ただ、節操のない功利主義的道徳や偏狭で暴力的な原理主義が幅を利かせる現代、カントの道徳論も一つの選択肢として考慮する必要がある。 了
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