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日常生活に役に立たない
小柴(元)東京大学教授が、超新星爆発で作り出されたニュートリノ検出に成功して、ノーベル物理学賞受賞者に選ばれた。ニュートリノは日本語では「中性微子」と訳される。電気的に中性で極めて小さくて軽いという意味だ。*1
小さく軽いが、ニュートリノは物理学や宇宙論の世界ではスーパースターだ。ニュートリノに質量があるかどうかで、宇宙の運命は大きく変わる。太陽のエネルギー源である核融合反応でも、ニュートリノは大きな役割を果たす。小柴さんのノーベル賞受賞は当然だ。
ニュートリノは弱い相互作用*2しかしない。だから、日常生活に役立つことはない。膨大な量のニュートリノが、太陽から毎日降り注いでいるのだが、ほとんどが地球を通り抜けてしまう。ニュートリノを使った通信システムや発電所を作ろうと思ってもできない。 |
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科学者の「2つの理屈」
そんな役に立たないものを研究して何の意義があるのかという異論がある。ニュートリノ検出の舞台となったカミオカンデとスーパーカミオカンデの建設には、膨大な資金が投入された。優に100億円を超える。
「ノーベル賞一つ取るために、膨大な資金を投入することが正しいことなのか。発展途上国への援助、ガンやエイズの研究、もっと他に有意義なお金の使い方があるのではないか。」もっとも意見である。しかし、ノーベル賞という権威のもと、こういう異論は無視される。心の中で疑問に思っていても口に出す人は少ない。
こういう疑問をぶつけると、科学者は二つの理屈を持ち出して反論する。
力学、熱統計力学、電磁気学、量子論などの物理理論は、現代社会に圧倒的な影響を与えている。これら理論なしには、自動車、電気、コンピュータなど現代社会を支える道具や機械は存在しなかった。これらの理論も、始めは役に立たないと思われた。ところが、人間社会を根本から変革した。だから、ニュートリノの研究も今は役に立たなくても、必ず役に立つ日が来る。これが一番目の理屈である。
しかし、これは嘘である。一般相対性理論発見から90年近く経つが、実用化されたものはない。小柴さんも正直に「ニュートリノの研究は生活に役立たない。」と認めている。小柴さんは、学者の良心に従い、真実を語っている。
もう一つの理屈はこういうものだ。人間は実益だけを求めて生きているのではない。宇宙や素粒子の謎を解明することは、知的生物である人間にとって、その尊厳と偉大さを示すものである。「人はパンのみに生きるにあらず。」というわけだ。
しかし、飢えや病に苦しむ人が無数に存在するという現実を前にすると、こういう理屈には首をかしげざるをえない。 |
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科学のみが人間の尊厳ではない
人間の偉大さは、科学だけが示すものではない。科学よりむしろ芸術こそが、人間の偉大さを示すと考えられてきたのではないだろうか。科学は、芸術と比較したとき、実用性ということで評価されてきたのではないのか。
ニュートリノや超新星の理論を正しく理解できる者は、世界中でも1万人を超えることはないだろう。だが、バッハやモーツァルトの音楽に美と喜びを見出す人は無数にいる。これからも、それが変わることはない。知的な偉大さを示したいのなら、宇宙や素粒子の研究などではなく、芸術振興に資金を投じるべきだ。科学者の言い分は屁理屈に過ぎない。
日本人は、日本がオリンピックでたくさんの金メダルを取ると喜ぶ。同じように、ノーベル賞をたくさん取ると喜ぶ。それだけのことだ。そのために膨大な資金が使われている。
優れた物理理論が、人間の素晴らしさを示すものであることを否定しない。予算を削減しろと主張するつもりもない。どうせ、削減された予算はろくでもないことにまわされるのだ。アメリカが世界最大の素粒子加速器建設を断念したときに、その予算はどこにまわされたのか。軍事費かなんかに使われたのではないだろうか。 |
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「ノーベル賞」の意義
どのみち、愚かなことに使うのであれば、ニュートリノは罪がない。核兵器を作るくらいなら、地下深く素粒子実験室を作る方が遥かにましだ。素粒子論や宇宙論のような学問は、人間がこれ以上愚かで邪悪にならないために、神が人に与えたものかもしれない。
とはいえ、「今年は二人もノーベル賞をとった。来年、再来年も期待できる。」と能天気に喜んでいる人たちを見ると、文句の一つも言いたくなる。ノーベル賞がどんな意義を持つのか少しは真剣に考えるべきだ。 |