☆ スピノザとニーチェ、哲学者の気質 ☆


 スピノザとニーチェの思想はよく似ている。しかし、本質的には、両者の思想は対極的な位置にある。

 ニーチェもスピノザも、自由意志を否定する。すべては必然である。人間の無知が自由意志なる幻想を作り出す。だが、自由意志なるものは存在しない。ここまでは同じである。しかし、ここから二人の思想は大きく分かれる。

 スピノザは、世界は合理的であると考える。人間は有限であるがゆえに、無限の世界を認識し尽くすことはできない。知性を持ちながら、必然を知らぬことが人間の悲しみ、苦しみの源泉である。
 一方、ニーチェは、世界は非合理であると捉える。必然を知ることがないのは認識能力の限界によるものではない。世界とは、もともと知的な認識能力で把握されるようなものではない。それは、奔放な肉体の意義と合致する混沌である。そこには常に「生成」という二文字がある。「生命あるところ力への意志を見る」これがニーチェの世界解釈である。スピノザの虚弱な知性は混沌のなかで道を失い滅びる。しかし、力を求める生命とそれを支える肉体は、混沌の中で絶え間ない生成へと向かう。ニーチェにとって、必然の世界こそ生命の可能性なのである。

 スピノザもニーチェも、同情心は無益な感情であると考える。しかし、その論拠は大きく異なる。
 スピノザは、生命の本質は自己保存にあるとする。同情心は自己保存能力を損なう。それが、スピノザが同情心を否定的に捉える理由である。
 ニーチェも、同情心が力を衰弱させるものであると考える点ではスピノザと一致する。「神は死んだ。人間への同情心のために死んだ。」とニーチェは宣告する。だが、力は自己保存を目的とするものではない。生命とは絶え間ない超越である。自己を分裂させ破壊させる地点まで肉体を導くもの、それが力であり、力への意志である。同情心は力を衰退させる。だが、それにより自己保存能力が損なわれるのではない。同情心は、超越する力を衰弱させ、歪んだ力への意志=真理への意志へとそれを堕落させる。真理への意志こそがスピノザを支配するものであり、下降する意志、衰退する者の意志なのである。

 スピノザとニーチェのどちらが正しいのかと問うことは無益である。ジンメルは、「哲学は世界像からみた気質であり、芸術は気質から見た世界像である。」と述べている。スピノザとニーチェが、事実認識においては一致しながらも、全く正反対の思想を展開した裏には、両者の気質の差がある。ウィトゲンシュタインとハイデガー、この20世紀を代表する哲学者たちにも同じことが言えるかもしれない。

 ちなみに、私は、個人的には、スピノザとウィトゲンシュタインに共鳴するところが多い。ニーチェとハイデガーには強い反発を感じる。私の気質が、スピノザやウィトゲンシュタインに近いからかもしれない。



(H14/12記)


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