☆ ウィトゲンシュタイン ☆


 ウィーン出身でイギリスを中心に活躍した哲学者ウィトゲンシュタインに印象深い言葉がある。
 「語りえぬことには沈黙しなければならない」(「論考」)
 「考えるな、見よ。」(「哲学的探究」)
 ウィトゲンシュタインは、ハイデガーと並び、20世紀を代表する哲学者であると言われる。この評価が妥当なものであるかどうかは別として、ウィトゲンシュタインほど、人間が陥りがちな誤解と錯覚を鋭く指摘した思想家はいない。この二つの言葉は、ウィトゲンシュタインの哲学の真骨頂を示すものである。

 この言葉を理解するには、ウィトゲンシュタインの哲学全体を見渡すことが必要である。しかし、簡単に言えばこういうことである。

 最初の言葉は、人間が、明確に語ることができることと、語ることができないこととを混同しがちであることを指摘する。
 「平成15年元旦の東京都の夜明けは何時か。」という問いと、「善い人間とは何か。」という問いを較べてみよう。前者の問いと答えは明確に語ることができる。理科年表(丸善)によると6時15分である。
 だが、後者の問いと答えは明確には語りえない。マザー・テレサは20世紀最高の聖人であると褒め称えられている。しかし、マザーが頑なに人工中絶反対を主張するとき、それに賛同する人は少ない。現代的な医療に否定的なマザーが、自分の遣り方に固執して、病人が近代的な治療を受ける機会を妨げたと批判する医者もいる。誰が善人で、何が善であるか、誰もが納得するような形で明確に語ることはできない。マザー・テレサが聖人であることに皆が合意したとしよう。それでも、「マザー・テレサのような人」、「マザー・テレサのような行い」が何であるかを明確に語ることはできない。

 夜明けの時刻に関する問題と、善に関する問題では、性格が全く異なる。それにも拘わらず、人は、しばしば、両者を混同する。そして、「善は何であるか」という問いを自然科学的な探究方法で解明できると錯覚する。ウィトゲンシュタインは、最初の言葉でそれを指摘している。

 「考えるな、みよ。」この言葉は、人が固定観念に囚われて、軽率な判断をしがちであることを警告する。
 「政府は労働者のストライキを弾圧した。彼らが共産主義者だからだ。」この言葉を目にしたとき、資本主義社会で生活する者は、「共産主義=反体制運動」という図式に囚われて、「彼ら」を弾圧された労働者と考える傾向にある。つまり、この言葉を「政府は労働者のストライキを弾圧した。労働者達が共産主義者だからだ。」と読みがちである。一方、嘗てのソ連・東欧の共産圏で政府に抑圧されていた人々は、この言葉の「彼ら」を政府の要人たちと判断する傾向が強いだろう。すると「政府は労働者のストライキを弾圧した。政府の要人達は共産主義者だからだ。」と読まれることになる。
 この言葉だけでは、「彼ら」がストライキを実行した労働者を意味するのか、労働者を弾圧した政府要人を意味するのか決定することはできない。しかし、私たちは自分が属する社会の常識や伝統に囚われて、言葉をよく見ること、よく聴くことを忘れてしまう。そして、「彼ら」を「労働者」あるいは「政府要人」であると断定してしまう。ウィトゲンシュタインの第二の言葉はそのことを警告している。

 こればかりの説明で、ウィトゲンシュタイン思想の全貌を語ることができるわけではない。ここで掲げた言葉の意味を解明したことにもならない。興味のある人は、ウィトゲンシュタインの著作や解説書を読んでもらいたい。

 ウィトゲンシュタインの哲学は、「論考」を書いた若き時代と、それ以降とでは大きく変化している。また、「論考」以外の著作はすべて、彼の死後、弟子達が遺稿を編集したものである。そのために、彼の哲学的著作は、テーマが一貫しておらず読解は容易ではない。
 しかし、このことだけは確かである。「ウィトゲンシュタインほど、言葉を使用する人間が陥りがちな思考の混乱とその原因を深く探究した人はいない。」
 私は、哲学の真のそして唯一無二の任務はここにあると考えている。私にとって、ウィトゲンシュタインは、伝統的な哲学の解体を試みた者であるとともに、真の哲学者である。ソクラテスがそうであるように。



(H14/12記)


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