☆ 事実とは〜モデル・道具論から ☆

井出 薫

 「これは事実だ」など「事実」という言葉はよく使われる。しかし「事実とは何か」と問われると説明するのは案外難しい。ある事象に関する命題が事象を正しく記述しているとき命題は事実を表現していると言われる。「猫が私の机の上で昼寝をしている」という命題は、実際に、私の机の上で猫が昼寝をしているときには事実を正しく記述していると言われる。

 ここで、事実という概念がモデル・道具と関連していることが明らかになる。私たちの認識と実践は対象との関りにおいて対象とは解消できない差異を持つモデル・道具の生成と活用により遂行される、というのがモデル・道具論だ。モデル・道具が対象の在り方を適切に表現しているとき、当該モデル・道具は事実を表現していると評価される。しかしながら、これは特定のモデル・道具に関して成り立つことであり、一般的に成り立つわけではない。対象を芸術的・比喩的に表現するモデル・道具は事実を表現するものではない。私の机の上で猫が昼寝をしているとき、この猫をこよなく愛し猫もまた大好きだった亡き妻を思い出し、「今も愛妻が私を見守ってくれている」というモデル・道具を生成することができる。このモデル・道具は決して無意味なモデル・道具ではない。しかし事実を表現するものとは言えない。事実はモデル・道具論と密接な関係にあるが、事実がモデル・道具と常にかかわる訳ではなく、またモデル・道具の妥当性を評価する絶対的な基準ではない。モデル・道具は対象との関りにおいて生成されながらも、それ自身は対象とは解消できない差異を持つ。そのことが、事実という概念とモデル・道具の関係において示されている。モデル・道具が対象とは解消できない差異があるからこそ、一つの対象に対して事実と関わるモデル・道具もあれば、事実とは関わりのないモデル・道具もある。そして両者とも適切なモデル・道具であることもある。

 ここに、事実を表現するモデル・道具とそうではないモデル・道具を判別する基準を探求するという課題が浮かび上がる。先の例で亡き妻を比喩的に表現したモデル・道具は事実の表現とは異なるモデル・道具と言える。では事実を表現するモデル・道具とそうではないモデル・道具を判別する基準は存在するだろうか。人物Aが人物Bが近づいてきたとき右手で突き飛ばしたとする。そのことを「人物Aが人物Bが近づいてきたとき右手で突き飛ばした」と表現すれば、それは事実を表現したモデル・道具となる。また、そのとき、その場面を誰かが映像に撮影していたら、その映像も事実を表現したモデル・道具になる。また「Bに反射した光がAの視神経を刺激し脳内で信号処理が行われたのちにAの右手の筋肉に信号を送り筋肉が前方に伸びBの身体に圧力を及ぼした」と物理学的・神経生理学的な説明もまた事実を表現したモデル・道具となる。但し、この説明はAの行為が法的または道義的に妥当か否かを判断する際には役立たない。「Bが近づいてきたという情報がAというシステムに入力され、システムがその情報を分析して適当な行動を計算した結果、右手を突き出すという行動(出力)を生み出した」という情報処理・システム制御という観点に基づく説明も事実を表現したモデル・道具と言ってよいだろう。もちろん、この説明もAの行為が法的または道義的に妥当か否かを判断する際には役立たない。最後の二つのモデル・道具は自然科学的、情報処理・制御システム的な観点から事象を解明するために用いることができるモデル・道具であり、日常的な感覚からはあまり意味のないモデル・道具であり、また倫理的あるいは法的にAの行為を評価するときにも役立たない。もし、法的な問題または倫理的な問題としてAの行為の正当性を評価することが必要な場合は、最後の二つのモデル・道具は冗長であり的外れなものとなる。だが、それでも事実を表現したモデル・道具であることには変わりはない。このように事実を表現するモデル・道具は同じ事象でも複数存在する。どれを選択すればよいかは状況による。また、二つ目のモデル・道具である映像は映像の角度や色彩などによっては事実を的確にとらえていない場合もある。また物理学的・神経生理学的なモデル・道具はモデル・道具の土台となる物理学的及び神経生理学的な理論が妥当であるという条件においてのみ事実の表現となるから、もし理論が誤りであることが判明すれば、その説明は事実の表現としては間違っていることになる。自然科学的な視点での人間の行為の記述には常に誤りの可能性があり、その場合には事実を表現したモデル・道具ではなくなる。情報処理・制御理論的なモデル・道具でも同じことが言える。

 こう考えてくると、確実に事実を表現したモデル・道具と言えるのは、この事例では日常的な表現である「人物Aが人物Bが近づいてきたとき右手で突き飛ばした」というモデル・道具と、適切な位置から適切な方法で撮影された映像というモデル・道具の二つであるように考えられる。言い換えると、人間の行為を対象とするモデル・道具で、事実の表現として適切なのは、日常的な説明や正確な映像などであると考えたくなる。普通はそのように考えて問題はない。だが、常にそうだとは言えない。たとえば人物Aが重い精神障害を患っている、あるいは薬物を摂取し正常な判断が出来なくなっている場合には、事実の表現として精神医学的、病理学的、薬理学的なモデル・道具を追加する必要が生じる。そして、それらのモデル・道具は物理学的神経生理学的なモデル・道具または情報処理・制御論的なモデル・道具に近いものとなる。人間の行為を表現するモデル・道具で、事実を表現したモデル・道具として適切であると言えるものが何であるかは、このように状況により絶えず変化する。

 人が直接かかわらない事象、たとえば地震による建物の倒壊などでは倒壊に至る物理的なメカニズムを記述したモデル・道具が、単に「巨大地震で建物が倒壊した」という日常的な表現であるモデル・道具よりも有益であることが多い。建物が老朽化しており地震がなくともあるいは小さな地震でも倒壊した可能性がある場合などは、倒壊のメカニズムと地震との因果関係の解明が欠かせない。ただし自然科学的なモデル・道具はそれが事実の表現となるためには、土台となる理論の正当性を前提としているから、理論に欠陥があることが判明した場合は事実を表現したモデル・道具とは言えなくなる。

 ここまでの考察から、事実を表現したモデル・道具が何であるか、その基準は何かという問いには明確な答えはないことが示唆される。その理由としては、「同一の事象でも事実を表現したと言える質的に異なるモデル・道具が複数存在する」、「その中で状況により適切なモデル・道具が異なってくる」、「自然科学的な説明を含むモデル・道具が適切と言えるためには、土台となる(それ自身がモデル・道具である)自然科学的な理論が正しいことが前提であり、自然科学的なモデル・道具が不適切であること(モデル・道具の適用が当該事象では不適切な場合を含む)が判明すると、事実の表現としては適切なものではなくなる」などをあげることができる。また「亡き妻が見守ってくれている」という表現も、語り手の心情を表現するという観点からすれば、事実と言ってよい場合がある。

 事実を表現したモデル・道具とそうではないモデル・道具を明確に分ける基準は存在しないと考えた方がよいだろう。そして、そのことは、事実という概念自身が不確実性を含むものであることを示している。但し、そのことは、事実/事実ではない、事実を表現するモデル・道具/事実を表現するものではないモデル・道具という区分が無意味だということではない。もし、この区分を全く無意味だとすると度外れた相対主義に陥り多くの問題でまともな議論が不可能になる。ただし境界を定めることは困難であることを忘れてはならない。

(補足)
 本稿では、事実(fact)と真実(truth)の差異については論じなかった。一般的に、事実とは個別具体的な事象に関わるものであり、真実とは一般的または普遍的で抽象的な事物に関わるものとして扱われることが多い。真実を表現するモデル・道具についても、本稿と同じような議論が展開でき、結論もおおよそ同じだと考えられる。ただし、個別具体的な事象と、普遍的または一般的で抽象的な事物には大きな差異があり、その点の考慮が必要であることは言うまでもない。それゆえ、真実を語るモデル・道具については別の機会に議論したい。

了

(2026/11/3記)

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