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井出 薫
「一寸の虫にも五分の魂」という言葉がある。小さな虫でも命があり無暗に殺してはならないという教えで、別に虫にも人間と同じように意識があると言っている訳ではない。だが虫にも意識や心がある可能性はある。 心、意識、精神など、人間の心を表現する言葉は色々ある。そして、その意味はいずれも曖昧で、心と意識を同一視するときもあれば、意識と無意識を分け両者を合わせて心ということもある。フロイトなどはさらに意識と無意識の間に前意識なる存在を想定する。潜在意識などという概念もある。感情や感覚は意識や心に含まれるものとして論じられることが多いが、別のものとして扱われることもある。精神はさらに曖昧で、心や意識と同じような意味で使われることもあるし、行動規範や倫理観を表現したものとして扱われることもある。ヘーゲルにおいては精神は個人を超えた普遍的な概念として扱われる。 それゆえ、虫に心や意識と呼ぶところのものがあるか否かは、そもそも意識とか心とかが何であるかの明確な定義や説明あるいは物理的な検証手段がないがゆえに、その存在あるいは不存在を立証する方法や基準を定めることができない。そのことはAIにも当て嵌まる。だからこそ、思考についてはチューリングテストという方法が考案された。これは機械が本当に考えているか否かを自然科学的な検証方法や基準ではなく、私たちが機械が考えていると解釈するうえでの共同体的なコンセンサスの基準を提案したものに過ぎない。それゆえ、私たちは「たとえチューリングテストに合格した機械でも、考えてはいない、人間だけが考えることができる」と言い張ることはできる。 さらに、哲学的ゾンビ、つまり外観、振る舞い、言動、身体的特徴(細胞、器官など諸組織を含む)が完全に人間と同じであるにもかかわらず意識あるいは心を持たない存在を論理学的にも物理学的にも否定することができない。そこから意識や心の存在あるいは不在を科学的に論証することはできないという思想が生まれる。近年、AIの進歩と普及に伴い、AIは意識を持つことができるかという議論が増えている。しかし、意識を持つとはどういうことかを詳細に吟味することなく、できる/できないが議論されることがほとんどで不毛な論争に終わっている。 自由意志に関して、筆者は自由意志という概念を持つモデル・道具を人間以外の生物やAIに適用できるか否かは科学的な実証の問題ではなく、共同体のコンセンサスの問題だと論じた。これと同じことが意識の存在/不在たとえば虫やAIに意識があるか否かの問題についても成り立つのではないだろうか。意識を持つか否かは科学ではなく共同体のコンセンサスにより決まると。 しかし、この考えには違和感がある。自由意志は幻想にすぎないと言うことはできる。そう主張しても、余り不自然さはない。私は自分でどの大学を受験するか、どの会社にエントリーシートを提出するか、○○と結婚するか、など重要な判断を自分の意志で決めたと考えている。このような重要な決断だけではなく昼食を何にするか、飲まずに帰るか飲んで帰るか、なども自由に自分の意志で決断したと信じている。しかし、それは幻想にすぎず、本当は決断をする前の脳など身体の状態と私を取り巻く環境に規定されて物理学的に決定されていたというのが真実で、ただ、その決定のメカニズムや物理法則を知らないがゆえに、自分の自由意志で決めたと思い込んでいるに過ぎない。こういう反論ができる。そして、人間は原子分子の集合体であり、ミクロ的には物理法則に厳格に従う存在なのだから、なおさらそう考えることの正当性が高まる。知らぬが仏で、すでに私の決断は定められている。量子論の登場で厳格な決定論は否定されたが、それでも統計的に未来は決まっており。その統計を変えることは人間にはできない。ただ偶然的な要素が私たちの振る舞いに潜り込んでいるという点で古典物理学的な世界とは異なる世界に私たちは住んでいる。しかし、偶然性の存在つまり複数の未来が可能であるとしても、私たち自身が自分の意志で特定の選択肢を選択することはできず、ただなるようにしかならない。それゆえ、自由意志の問題は、自由意志というモデル・道具の正当性を科学的に検証するという実証科学的な問題群に属する課題ではなく、そのモデル・道具を適用するか否かが共同体のコンセンサスにより決まるという社会的な課題だと考える方が適切だと言える。 だが、心や意識には、自由意志の存在/不在とは異質なリアリティがある。明確な定義が存在せず、他者にそれらの存在を正確に伝達することが事実上不可能であっても、確かに、私たちは自分に意識とか心とか、あるいは情念、感情、感覚なるものが備わっていると確信している。頭が痛いとき、その痛みは単なる幻想ではなく現実だ。そこに自由意志とは全く異質なものが存在している。私たちは、物理学的に明確に定義することはできずとも、意識、心、感情、感覚、情念、欲望・欲求、さらには精神などというものの存在を直接的に知っている。だからこそ、デカルトは「我思う故に我在り」と宣言したし、私たちは論理的にも物理的にも哲学的ゾンビが否定できないと言っても、その様な存在は実際には存在しないし、存在しえないと考えている。さらに、人間の認識と実践が対象とは解消できない差異を有するモデル・道具の生成と活用により媒介されているという筆者の思想は、私が意識あるいは心を持っているからだとも言える。もしそれがなければ、モデル・道具が介在していると言うことはできなかったように思える。 私たちが意識あるいは心などを学的に論じようとするとき、意識や心が帰属する対象としての人間とは解消できない差異を有するモデル・道具を介して議論が展開される。しかし、意識とか心とかはモデル・道具を超えて私たちにとってリアルな直接的な存在と感じられる(注)。そのことを如何にして理解するかが重要な哲学的課題となる。そしてそれに一定の答えが与えられたとき初めて、本格的にAIや人間以外の生物に意識があるか否かを論じることができるようになる。 (注)デリダは、このような直接性という思想は反復可能性を前提としており錯覚にすぎないと論じる。しかし、痛みなど感覚の直接的リアリティは否定しがたい。それは内省により初めて見いだされるものではない。 了
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