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井出 薫
人間は対象とは解消できない差異を持つモデル・道具を生成することで対象を認識し、その活用を通じて対象に働きかける(実践する)。これがモデル・道具論だ。知識の内在説と外在説との対立は無意味であり、自然法則が自然そのものに内在するという思想は正しくないとモデル・道具論は主張する。 ところで、認識という言葉は哲学では正しい知見を得ることを意味する。たとえばカントの批判哲学では正しい知見を得ることが認識とされ、認識を得る方法が議論されている。一方、筆者はモデル・道具論で認識という言葉をもっと広い意味で使用しており、不適切な知見や理論もそこには含まれる。伝統的な哲学的用語を引用すれば、筆者の認識とは信念の形成にほぼ等しい。ただし、モデル・道具論では、記憶の中の信念や体験だけではなく、書物、設計図、道具・機械、科学の産物としての技術、建造物や芸術作品などの可視的な媒体を通じて広く共同体で共有される知見(臆見や誤謬も含む)の獲得が認識という言葉で表現される。不文律の規範や伝承もモデル・道具に含まれ、認識の対象と成果として解釈される。 つまりモデル・道具論では不適切なモデル・道具もモデル・道具に含まれ認識の対象または成果となる。そこで、モデル・道具論では不適切なモデル・道具を排除し適切なモデル・道具を得るにはどうすればよいかという課題が生じる。また、同時に不適切なモデル・道具が長く共同体で真善美として通用することがあるのはなぜかという問いも探究する必要がある。ニュートンの座標系に依存しない絶対時間と絶対空間の存在はアインシュタインにより否定されたが長く絶対的な真理として数世紀に亘り君臨した。近代以前は残虐な刑罰が世界中に存在した。人権思想が定着したのはさほど昔のことではない。このように、適切なモデル・道具をどうすれば得ることができるか、(その問いと密接な関連をもつ問題なのだが)なぜ不適切なモデル・道具が真善美として通用することがあるのかは課題として残されている(注)。 (注)どうすれば適切なモデル・道具が得られるかという問いが解決されれば、不適切なモデル・道具が真善美として承認されることはなくなる。それゆえ両者の問題は密接に関連する。 新しいモデル・道具はその始まりにおいては私的あるいは少人数においてのみ共有されるものとして現れる。もちろんその背景には共同体で広く共有されている既存のモデル・道具群がある。しかし、それでも、新しい私的あるいは少数派のモデル・道具が普及し、共同体で広く共有されているモデル・道具群を大きく変容させることがある。そして、それが学問や技術、慣習・法などだけではなく共同体全体を進化させる。それゆえ、モデル・道具がどのように伝達され共有化されるか、その過程で何が起きるかを検討することが重要な課題となる。 この二つの課題の中で後者については先の論考で簡単に議論した。前者についてはカントや論理実証主義者の試みがあるが成功していない。ここで指摘しておく必要があるのは二つの課題は相互に関連しているということと、いずれの課題もカントや論理実証主義者が望むような明快な解答を得ることはおそらく不可能だということだ。だからこそ、筆者は認識という言葉を、適切な知見を得ることだけではなく、不適切な知見を得ることも含む言葉として使用している。なぜなら、適切な知見と不適切な知見は明確に区分することができないからだ。詳細は別の論考に譲る。 了
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