![]() |
![]() |
![]() |
||||||||
|
井出 薫
モデル・道具論は、人間の認識と実践は対象と関りながらも対象とは解消できない差異を持つモデル・道具の生成と活用であると論じる。この観点からすると、技術はモデル・道具の生成と活用の典型的な例だと言ってよい。ただ技術という言葉は多義的で厳密に定義することはできない。それゆえモデル・道具論と関連付けて技術を論じる場合には、それに相応しい技術の概念を便宜的に定める必要がある。そして、筆者が論じてきた技術論はそれに相応しい。 技術は、身体とその活動の延長と、共同体の共同作業の拡張として原初的な姿を現し、その進歩の過程で、その原初的な姿が隠蔽され、身体や共同体から自律した外的な存在となる。そして、それにより身近な道具から機械へと進化する。しかし、進歩した技術でも人間の認識と実践においてその役割を果たす者であることに変わりはなく、同時に対象との関りを持つ存在であるとともに対象そのものとは解消できない差異を持つものであることも変わりはない。それゆえ、技術はモデル・道具の生成と活用そのものだと言ってよい。しかしながら、全てのモデル・道具が技術だという訳ではない。別の論考で示したとおり、店の名前や道順などの記憶やそれを記録したメモなどもモデル・道具であるが、技術という範疇には含まれない。また、純粋な学的探究も技術とは一線を画す。それゆえ、技術はモデル・道具の生成と活用の一領域をなすと考える必要がある。芸術は技術とその始源においては極めて近い存在だが、現代においては芸術というモデル・道具は技術のそれからは自立している。 技術というモデル・道具は進歩と共に巨大化・複雑化し、自律化し、社会のあらゆる領域で決定的な影響力を発揮するようになる。そして、その結果、技術というモデル・道具は、モデル・道具の多様性、恣意性をその基盤として、他の多様なモデル・道具と相互作用をするようになる。技術は初期段階から数学とは密接な関係を持っていた。数学が技術を支え、技術が数学の進歩を促した。さらに、西洋近代以降は、数学が近代的な物理学と密接な関係を持つようになったこともあり、技術は科学特に物理学を中核とする自然科学と密接な関連を持つようになる。技術というモデル・道具は、自然科学というモデル・道具と近しい位置に置かれ、そこで、近代以降は、しばしば科学技術という表現が使われるようになり、科学の応用が技術だという主張がなされるようになった。だが、厳密に言えば、技術を科学の応用とみるのは適切ではない。技術と科学はそれぞれ独立したモデル・道具群であり、また技術の中でも分野ごとに独立したモデル・道具群がある。同様に自然科学において、また人文社会科学においても、分野ごとに独立したモデル・道具群がある。しかし、科学技術という言葉が流通していることは決して不適切なことではない。数学が技術に不可欠であるだけではなく、科学の諸分野は新しい技術の源泉となっており、また技術の進歩が科学の進歩を促したり、新しい科学や数学の登場を要請したりしている。両者の関係は現代において益々密接になっており、科学技術という包括的なモデル・道具群を考えることは無意味ではない。但し、それが便宜的なものであることを忘れてはならない。 (注)技術と自然科学だけではなく、人文社会科学もまた両者と相互に密接な関係を持つ。それは技術が、そして科学もまた社会とそこにおける人々の営みであり、モデル・道具を介した人間の認識と実践の中にあるからだ。自然科学や技術はそれ自体イデオロギー的に中立で、それが人々と地球生態系に幸福をもたらすか不幸をもたらすかは使い方の問題だとよく言われる。確かに、物理法則や円滑に作動する機械を単独で取り上げれば、それはイデオロギー中立になる。しかし、科学も技術も単なる物理法則や機械ではない。それらは社会的な営みの中に埋め込まれており、社会から独立している訳ではない。その意味で、自然科学や技術もまたイデオロギーに依存する面がある。また、科学技術という表現自体が現代のイデオロギーとも言える。ただし、物理法則や機械そのものまでイデオロギー依存性を有するものとする極端な社会構築主義は正しくない。物理法則や現実の機械のような存在者はイデオロギーに依存しない客観的な存在者とみる方が正しい。 さて、近年最も注目を集めているのが、AI、その発展形としてのAGI・ロボットだ。技術はその始源において、身体と共同体の共同作業の拡大として現れる。それが進歩と共に身体や共同体を離れ、外部化し自律的な存在となり、人間と疎遠なものとなっていく。自動車、列車、航空機、船舶、超高層ビル、発電所、無線と有線からなる電気通信ネットワークのような存在がその典型として挙げられる。これらも、その製造と運用、利用においてモデル・道具を介した人間の認識と実践であり、近現代的な技術の典型として現れる。それらも始源においては身体の延長、共同体の共同作業の拡張という原初的技術に繋がっている。しかし、すでにこの絆は隠蔽され容易には見えなくなっている。一方において、AGI・ロボットは、そこに使われている技術が極めて精緻で高度なものであるとは言え、明らかに身体の延長並びに(AGI・ロボットがネットワーク化されることを通じて)共同体の共同作業の拡張として直接的に現れている。つまり、始源において現れる原初的な技術の性質が高度な次元において再現されていると言える。この性質はバイオ技術にも共通する。技術というモデル・道具は、その進歩の過程において、これまでは人間とその共同体から離れ続けてきた。だが、ネットワーク化されたAGI・ロボットやバイオ技術において再び原初的な性質が蘇ってきている。しかし、これは決して不思議なことではない。モデル・道具の最も初歩的な事例として店への道順の記憶やメモを取り上げた。これは技術というカテゴリーには入らないが、技術を要請するものであり原初的な技術へと繋がる。そして、店を覚える、道順を覚える、メモを残す、などの営みは現代においても至る所で行われている。つまり原初的なモデル・道具の生成と活用は原始時代と同様に現代も行われている。それゆえ、最先端の技術というモデル・道具は現実世界で、常に身体の延長と共同体の共同作業の拡張という原初的な技術というモデル・道具と常に接している。それゆえ、最先端の技術が、モデル・道具の交差の中で、再び原初的な性質を帯びることは当然のことと言える。人間にとって最も重要な存在は人間というモデル・道具であり、それは時代を超えて技術の目的だった。人間と同じことをより迅速かつ正確にできる技術、身体の健全性を保つ技術、これらの実現は容易ではなかった。しかし、21世紀に入りそれが可能となってきた。そして、それは原初的な技術からの必然的な帰結だったとも言える。このように、モデル・道具論という観点からみることで、AGI・ロボットやバイオ技術の進歩の背景と過程、そしてその意義と未来を適切に考察することが可能となる。 了
|