☆ 社会、倫理、モデル・道具論 ☆

井出 薫

 人間は対象と関わる中で対象とは解消できない差異を持つモデル・道具を生成することで対象を認識し、それを活用して実践する。このモデル・道具論は対象が自然でも社会でも変わらず適用することができる。だが自然と社会とでは大きな差異がある。

 自然は人類が登場する以前から実在した。量子論は自然の性質が測定により異なること、未来は確率的にしか確定していないことを教えるが、人類とは独立した自然界が実在することに変わりはない。もちろんそれを証明することはできない。5分前に宇宙は誕生し、ただ人類の目には138億年前に誕生したように見えているだけという可能性は否定できない。否定するためには物理法則が時空を超えて普遍的であることを前提しなくてはならないが、その前提を証明することはやはり不可能だ。それは私たちの信念に過ぎない。だが、その信念を否定したら、現代文明は成り立たない。予測することも、過去を再現することも単なるファンタジーになってしまうからだ。そうだとすると科学だけではなく哲学することも無意味になる。それゆえ、モデル・道具論も人間の存在とは独立した客観的な自然の実在性を前提に議論を進める。この前提からも明らかなとおり、自然科学やその応用としての工学の対象は第一次的には客観的な実在物だと言える。ただし、包括的な理論を構築する際には、直接的に自然を対象とするのではなく、一次的なモデル・道具を対象とすることになる。だが、いずれにしろ、自然は人間存在とは独立した客観的な実在者であり、自然科学の対象の始源には、この実在物が存在する。

 これに対して、社会はすでに認識、実践の対象となるとき、その対象は客観的な実在物ではなくモデル・道具となっている。商店で販売されているリンゴを考えてみよう。リンゴは自然科学的には自然的な実在物であり、その性質に商品であること、価格が存在することなど社会的な規定は一切含まれていない。商品という概念も、価格という概念も、自然的な対象物としてのリンゴから得られるものではない。また自然としての地球には国境や領海、排他的経済水域など存在しない。それは人間が恣意的に定めたものでしかない。このことから容易に想定されることだが、社会という対象は自然と異なり、それ自身として客観的な実在物としては存在しない。社会は認識と実践の対象となるとき、それ自身がモデル・道具なのだ。商品として価格を有するリンゴは、社会的な諸関係に規定されて、自然物であるリンゴに商品とか価格とかいうモデル・道具を担わされて市場に登場する。さらに消費者の手に渡ったときには食材として食卓に現れる。リンゴには人間にとって不可欠な栄養素が含まれている。しかし、価格を持つ商品としてのリンゴは自然物としてのリンゴとは全く異なっている。リンゴの栄養物としての価値の高さは価格とは無関係だし、商品としてのリンゴは食材として使われるとは限らない。デッサンの素材として使われ後は捨てられてしまうこともある。どう使われるかは商品の買い手次第で決まり、自然物としての性質は関係ない。

 このように社会、社会的諸現象、社会的諸関係、社会の構成物、それらを研究する社会科学などの対象は、それ自身が実在物であることはなく、すでに社会的諸関係の中で構築されたモデル・道具として現れる。そこが自然と自然を研究する自然科学とは決定的に異なる。自然科学は一般に法則の発見を目指すが、社会科学では規則性や規範が探求の対象となる。自然法則には人間とは独立した客観性があるが、規則や規範は人間の意思あるいは偶発的な事件で不規則に変化しうる。社会科学は、それゆえ、社会という名で総称されるモデル・道具の集まりを対象とする学問となる。ただし、対象がモデル・道具であっても、認識により生成されるモデル・道具は、対象としてのモデル・道具とは(自然と同じように)やはり解消できない差異がある。価格を持つ商品を対象にそれを認識するには価格や商品という概念は言うまでもなく、価格を決定するメカニズムなど様々な知識=モデル・道具を援用して新たなモデル・道具を生成することが必要となる。「100円のリンゴ」の認識は「100円のリンゴ」そのものとは異なる。さもないと、それを実践に活用することはできない。

 ここで、社会科学やそれに類似した性格を持つ人文科学、その他社会に関する認識が、モデル・道具を対象とするモデル・道具の生成だとすると、対象としてのモデル・道具も何らかの別のモデル・道具を対象として生成されたものだということになる。私たちは日々、それと意識することはなくとも、社会というモデル・道具を更新し続けている。では、このモデル・道具の連鎖を過去に遡ると始源となるモデル・道具が存在することになるのではないかという考えが生じる。人間の歴史は有限であるから、それが万国共通ではないとしても何らかの始源があるはずと考えられる。ただ、始源を知ることは現実的にも原理的にも不可能だ。情報は常に散逸する。それゆえ過去を完全に再現することは不可能で、不確実な想定をすることしかできない。明智光秀はなぜ織田信長を裏切ったのか、想像することはできても本当のところを知ることはできない。この始源の不可知性がデリダの脱構築、ケルゼンの根本規範などの思想に繋がっている。両者ともモデル・道具論を論じている訳ではないが、社会の本質的な在り方を直観し、始源の存在とその不可知性をその思想の中で表現している。始源は存在し且つ不在だと言うこともできよう。

 社会とはモデル・道具であるという観点に立つと、事実と規範の関係つまり倫理学・道徳学の難問の解決への道が見えてくる。倫理学や道徳学、哲学では、事実から規範を導くことはできないとされることが多い。「理由もなく人を殺すと、周囲の怒りを買い非難される」、「遺族の悲しみは深い」、「誰もが自分は殺されたくないと思っている」という事実から「人を殺すことは許されない」という規範は導けない。このように一般的には考えられている。また経済学的合理性(たとえばパレート効率)は「公平な分配がなされなくてはならない」、「弱い者や苦しんでいる者は助けなくてはならない」という規範を導くものではなく、相反することすら珍しくない。事実と規範はそれゆえ異なる領域に存在すると論じる者が多い。たとえばカントの批判哲学がそうだった。しかし、社会的な事実も規範もモデル・道具であることに変わりはない。規範というモデル・道具の源泉を辿っていくと事実というモデル・道具に突き当たる。共同体のある人物の振る舞いが共同体に多大の災厄をもたらしたという社会的事実(というモデル・道具)から、その様な振る舞いは決して為してはならない・為した者は罰するという規範(というモデル・道具)が生成されることは当然にありえる。対象とそのモデル・道具は解消できない差異がある。だから、事実から規範への飛躍が常に可能となっている。実際、事実と規範との関係はこのような歴史的な出来事の中で生じていると考えられる。今という時点で見れば、事実と規範の間には大きな溝がある。だが歴史的な視点を導入すれば両者は無理なく繋がる。このようにモデル・道具論が一般的な視点であると理解すれば、道徳や倫理に関する哲学の難題は解決される。ただし、モデル・道具論はあくまでも認識と実践の枠組みを示し、また諸分野の関連性を考察するための手法となるべきものであり、社会科学、人文科学、倫理学、道徳学など個別の学問領域の諸問題に答えを与えるものではない。


(2026/4/16記)

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