☆ モデル・道具論への序論 ☆

井出 薫

 人間の認識はモデル・道具の生成・修正であり、人間はそれを実践で活用する。モデル・道具は対象との関りにおいて生成されるが、対象との差異は解消されない。筆者は何度もこう主張してきた。しかし、そもそもモデル・道具とは何だろう。

 初めて行った場所で散歩する。途中で小綺麗な喫茶店を見つけて入店しサンドイッチとコーヒーを注文する。どちらも美味しい。店員の感じもよく値段も手ごろ。また来ようと思う。このときの記憶を頼りに二週間後、店を再訪する。最初の散歩のときに、店と店に至る道筋を記憶し、それを頼りに再訪している。この記憶をモデル・道具の一例と考えることができる。頭の中にある記憶は実際の店と道筋とは異なる。しかし、記憶を辿って店を訪れコーヒーを飲むことができる。つまり記憶は実在する店とそこに至る道筋のモデルであり、同時に店に行くための道具として活用されている。これは最も原初的なモデル・道具であり、人間がモデル・道具の生成を通じて認識し、そのモデル・道具を実践で活用することを示している。そして対象である店と道筋の記憶というモデル・道具は店と道筋そのものとは異なる。両者の差異は決して解消されることはない。

 この例はモデル・道具論の根幹を示すものではあるが、モデル・道具としては極めて原初的なものであり、人間社会を構成するような本格的なものではない。本例で扱っている記憶というモデル・道具は個人に留まっており、当人が忘れてしまえばモデル・道具も消滅する。事実、道を忘れ喫茶店が見つからないこともある。しかし、ノートにメモを取り、店の名前と住所、道順などを正確に記録しておけば、次回の来訪のときに店を確実に見つけることができる。このことからわかる通りモデル・道具が確実なモデル・道具であるためには当人から離れた外的な存在であることが求められる。ノートのメモはその最も簡単な例だと言える。だが、ノートをもっぱら私的なものとして使用している限りでは、このモデル・道具は他者の実践には活用できない。そのようなモデル・道具は私的なモデル・道具であり、それもまた社会を構成するものとはなりえない。

 このノートを家族や友人、その他の者に提供し、彼(女)らがそれを基に喫茶店に行くようになった時、初めてノートとそこに記録された情報が他者と共有されたモデル・道具となる。そして、この段階に至り初めて社会を構成するモデル・道具となる。つまり本格的なモデル・道具には外部性(当人の外部にある何か−本例ではノートとそこに記された記録−とその記録の他者との共有)が欠かせない。それゆえ、現実的な意味があるモデル・道具論はここから始まる。さて、このモデル・道具では、喫茶店と道筋に関する情報が複数の者で共有されているが、それでも、このモデル・道具は個別的な性質を保持している。店のオーナーや店員、他の客には店と道筋について別のモデル・道具がある。つまり、同じ対象でも様々なモデル・道具が存在する。これはモデル・道具と対象との間に解消されない差異があることに起因する。対象とモデル・道具には密接な関係があるが、対象を固定してもモデル・道具は複数、いや原理的には無数のモデル・道具が存在しうる。この点も極めて重要な論点となる。言葉の恣意性もこれに起因していると言える。

 ここで取り上げたモデル・道具は極めて単純なものであり、物理法則のような高度に抽象的かつ包括的なモデル・道具とは大きく性格が異なる。しかしながら、このような高度なモデル・道具もその出発点は本稿で述べた身近なモデル・道具なのだ。それゆえ、モデル・道具論の最初の主要課題は両者をどう結びつけるかということになる。

 ここで、店員が有するモデル・道具を考えてみる。店員は客とは違う見方で店を見ている。勤務時間、業務内容、オーナーとの関係、給与、など自らに直接関係すること以外でも、周辺環境についても客とは異質な情報を有している。それゆえ、客と店員が交流する機会があれば、互いが有するモデル・道具が拡張され、店と周辺環境に関するより広範で詳しいモデル・道具が形成される。そして、交流の範囲が広がるにつれて、モデル・道具は拡張され詳細なものとなっていく。さらに、量的な面でモデル・道具が拡張されるだけではなくモデル・道具の質的な面でも大きな変化が現れる。たとえば地域社会の動態を研究している研究者が交流の輪に加わると、その者は拡張されたモデル・道具の中から、自らの関心に適う抽象的なモデル・道具を得ることができる。たとえば、ある地区で時間帯により人口がどのように変化するか、どのような階層の人々がそこに暮らしているか、飲食店がどのように分布し、訪れる客が何を期待しているか、などの情報を分析収集し、地域の特性を表現したモデル・道具を生成することができる。このモデル・道具は出発点となった即物的で地図的なモデル・道具とは異質な性格を有する。そこにあるのは直接的に感覚で捉えることができるような実在物から構成されたモデル・道具ではなく、抽象化され、数理科学的に分析されたデータを組み合わせた学問的なモデル・道具になる。また、交流の輪に映画監督や作家がいれば、その地区に暮らす人、訪れる人、店などを素材に、それを適宜デフォルメすることで、映画作品や小説が生み出される。なお、デフォルメが可能であるのはモデル・道具と対象の間に解消できない差異があり、対象から様々なモデル・道具を生成することができるからと言える。こうして、即物的で地図的なモデル・道具から学的あるいは芸術的なモデル・道具へとモデル・道具は展開する。そして、その頂点には量子論や一般相対論のような高度に抽象的かつ普遍的なモデル・道具が存在する。ただし、このような高度に抽象化されたモデル・道具でも、原初的なモデル・道具と同様、対象との間にある解消できない差異の存在、外部性、多数の他者による共有というモデル・道具の本質的な特性は維持されている。たとえば一般相対論の重力方程式が宇宙に書き込まれている訳ではない。宇宙の重力現象を認識するために重力方程式というモデル・道具が生成されたのであり、重力方程式が直接重力現象なのではない。ここでもモデル・道具と対象との間に解消できない差異が存在する。また重力方程式は論文や教科書・専門書に書かれており、外部性を有する。それにより他者と共有され、またGPSや宇宙観測で道具として使用される。

 なお、モデル・道具論は決して観念論的な立場をとるものではない。モデル・道具に先立ち対象世界が実在することを認める。人間がそれと関わることでモデル・道具が生成される。ただし、モデル・道具は対象そのものではなく対象とは解消できない差異がある。モデル・道具を活用して対象と同じものを製造できてもモデル・道具はあくまでも対象を製造するための道具であり実在物との差異が解消されることはない。また、人間とモデル・道具自身が対象世界に属し、モデル・道具を介した認識と実践の対象となる。


(2026/3/28記)

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