☆ 存在論と認識論、モデル・道具論 ☆

井出 薫

 存在論と認識論は哲学の要だと言ってよい。存在論は、「存在者全体の性格は何か、物質か精神か、並存するのか」、「なぜ存在者が存在し無ではないのか」、「存在者の存在とは何か」などという問いがその中心になる。特にハイデガーは、古代ギリシャ以来の西洋形而上学は存在と存在者の存在論的差異を看過し、存在の意味を問うことを忘却してきたと指摘し、存在を問うことこそが哲学の第一問題だと論じた。一方、認識論は「人間の認知はどのように成立するか」、「正しい知見(知識)はどうすれば得られるか」などが主要な問いになる。現代においては認知のメカニズムは主として自然科学や工学により扱われているので、哲学の出番は少ない。むしろ、二番目の問いが認識論の主要課題になる。カントは二番目の問いを重視し近代哲学の祖と呼ばれる存在になっている。

 存在論と認識論は独立した課題として論じることもできるが、厳格に両者を切り離すことはできない。存在論が哲学として意義を持つためには、存在論的な主張を正当化する必要がある。だが、ある主張をどのように正当化するかは認識論の中心課題だ。カントはそれを指摘し批判哲学を展開した。批判哲学は認識論的な議論から始まる。そして、妥当な認識論に基づかない独断的な存在論は悪しき形而上学であるとしてカントは排斥する。では、認識論が第一優先の哲学的課題で、妥当な認識論のうえに存在論が成立すると考えればよいのだろうか。疑問がある。なぜなら認識論を展開するには、議論を展開するのに先立って幾つかの前提が必要となるからだ。認識主体としての人間と認識対象としての世界の様々な存在者、この二つを抜きにして認識論を展開することはできない。しかし、人間も世界の様々な存在者も存在論の土台のうえにある。そうなると、むしろ認識論は存在論を土台として成り立っていると考えるべきではないだろうか。

 フッサールはこの難題を解決するために、認識主体と認識対象という二項図式をエポケー(判断中止)する。そして、純粋意識に現象学的還元を行なうことで、二項図式を棚上し、存在論的な土台なしでも認識論が展開できると考える。だが、認識主体と認識対象をエポケーしても純粋意識なる存在者が残り、それが存在論的な議論の対象となる。フッサールの現象学は20世紀哲学に巨大な足跡を残し多数の優れた後継者を生み出したが、この点に関しては不満足なままに終わっている。そこで改めてフッサールの弟子であったハイデガーは「(存在者の)存在とは何か」を哲学の第一問題に据えた。主著『存在と時間』は20世紀最大の哲学書と称され、そこで展開されている実存分析はその後の哲学に決定的な影響を与えた。だが、ハイデガーは第一問題である「存在とは何か」に対する答えを与えることはできなかった。『存在と時間』は未完に終わりハイデガー自身、それを完成させることは困難であると認めている。このように存在論と認識論の関係は未解明のままに終わり、それは現代においても変わらない。一部のポストモダニストは存在論と認識論の差異を脱構築することで問題の解消を図ったが成功していない。現実の鶏と認識上の鶏は違う。この差異は決して解消されない。存在論と認識論を脱構築して流動化すると、この差異が隠蔽されてしまう。

 私たちは鶏を様々な観点から認識する。形状、行動様式、生態、生活環、成長、細胞、染色体、遺伝子配列など、鶏に関して様々な情報をもっている。コンピュータシミュレーションで鶏の行動を模倣することもできる。しかし、これらの様々な知識を幾ら集めても鶏にはならない。あくまでも鶏に関する認識が深まるだけだ。巨大な恒星が重力崩壊でブラックホールになる過程をコンピュータシミュレーションで描き出し、それを様々な観測データと突き合わせることでブラックホールの研究を進めることができる。だが、そこにあるのは概念としてブラックホール、人間の認識としてのブラックホールであり、実在のブラックホールではない。本物のブラックホールがコンピュータシミュレーションで誕生したら地球は瞬時に消滅する。現実世界に存在する鶏もブラックホールも、私たちの知識としての鶏とブラックホールとは違う。素粒子のように見ることも掴むこともできない存在となると、現実に存在する素粒子と理論上の素粒子の差異は曖昧になる。だが、それでも現実の素粒子は理論のそれとは異なる。

 カントはこの問題を現象と物自体という区分を設けることで説明しようした。私たちが認識できるのは現象界のみで物自体は認識できないとカントは論じる。だが認識できない物自体をカントはなぜ実在すると言えるのだろうか。エンゲルスはカントの考えを批判し、アリザリン自体なるものはアリザリンを製造できるようになった時点で消滅すると論じた。現実にアリザリンを作った時点で目の前にアリザリンが実在するのだから、認識不可能なアリザリン自体なるものは存在しないという訳だ。だが、製造したアリザリンもやはり認識されたアリザリンとは異なる。認識し製造した者がアリザリンになったわけではない。実在者と実在者の認識との間に横たわる差異は依然として解消されていない。ただ、認識が製造に役立つ、また製造できることで認識が深まるという相互作用があることは間違いない。

 ここから私たちは自然にモデル・道具論へと導かれる。認識は対象とは解消できない差異を有するが、それ自身が論文や書籍、データベースに記録されるとき、私たちはそれを道具として使うことでアリザリンを製造したり、鶏の品種改造をしたり、ブラックホールのコンピュータシミュレーションをしたりすることができるようになる。認識は対象とは解消できない差異を有しながら、その一方で対象の在り方に影響を受ける。それを私たちはモデルと呼ぶ。そして、このモデル自身が論文や書籍の文字や記号、画像、映像などの実在物となることで、現実世界に介入する道具になる。つまり、わたしたちの認識はモデル・道具であり、それを実践で活用することで新たなモノを製造したり、新たな認識=モデル・道具を得ることができる。ただし、忘れてはならないことは、モデル・道具は対象とは解消できない差異があること、モデル・道具を活用して実在物を製造したりシミュレーションをしたりしても、認識は依然として実在物などの認識対象との差異が残存し解消されることはない。だが、それはカントの物自体を肯定するものではない。モデル・道具により対象は正確に認識される。認識不可能な物自体なるものを肯定する必要はない。ただ、私は貴方ではない、鶏でもない、ブラックホールでもないという当たり前の事実があるだけなのだ。

 さて、モデル・道具論により存在論と認識論の問題は解消されたと言えるだろうか。存在者とその認識との間に差異がある以上、両者の関係をどう見るべきかという課題は残る。それゆえ、本稿の冒頭で述べた存在論と認識論の諸問題と両者の関連についての詳細な議論は課題として残されている。ただモデル・道具論の観点から、より合理的な議論が可能となる。


(2026/3/11記)

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