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井出 薫
ほとんどの技術は身体の延長と、共同体の成員の協力・連携とコミュニケーションの拡張と言ってよい。自転車、自動車、船舶などは走る・泳ぐという身体の活動の延長と言える。人は空を飛ぶことはできないが、ジャンプすることはできるし、槍や弓を遠くまで飛ばすこともできる。だから飛行機も身体の延長と言ってよい。眼鏡、顕微鏡、望遠鏡が視覚の延長であることは言うまでもない。そのほかの多くの日常的な道具も身体の延長だし、近代的な工業もその延長線上に位置する。共同体の成員の原初的なコミュニケーションは様々な通信手段へと発展し、今ではモバイルとインターネットに具現化している。食糧を確保するという生物にとって最も重要な課題は、(身体の延長としての)様々な道具を制作し活用しながら、共同体内での協業を通じて農耕技術を生み出すことで解決した。また食糧確保と並ぶ重要な課題である住処の確保は建築技術と都市建設で実現した。不幸なことだが共同体は他の共同体と争うことが多く戦闘の技術も並行して発展した。それもまた人間という種の身体と共同体の拡張として捉えることができる。 このようにあらゆる技術は人間の身体と共同体の原初的活動を出発点に発展してきた。さらに、身体的活動と共同体の成員の活動は精神的なそれを含み、様々な芸術を生み出し同時に芸術に欠かせない技術を生み出した(絵具、楽器、印刷、彫刻の材料と加工技術など)。 このような身体と共同体の拡張としての諸技術は、それと並行して精神的活動の一つである科学を生み出す。科学は現代においては素粒子や宇宙全体など人間の日常的体験とは大きく異なる世界も扱うが、そこで使われる科学理論は日常生活や産業活動、そして諸技術を通じて獲得された情報やデータを基に構築されている。たとえ難解な数学を使っていても、その根っこにはリアルな身体と共同体がある。そして、技術は人間を他の生物とは著しく異なる性格を持つ生物にした。 人間以外の生物は自然環境(他の生物を含む)との相互作用を通じて進化する。人間以外のどの種もそこから逃れることはできない。但し、生物は一方的に環境に淘汰される訳ではない。生物が無機的環境を大きく変えることは少なくない。シアノバクテリアの先祖は酸素発生型の光合成を行ない、酸素がほとんど存在しなかった地球環境を大きく変えた。海中の酸素が増えることで、海中の鉄は酸化鉄となり製鉄の原料である鉄鉱石として現代文明を支えている。シアノバクテリアに続いて酸素発生型光合成をおこなう多種多様な微生物が次々と誕生し大気中の酸素濃度が上昇し成層圏にはオゾン層が形成されるようになる。オゾン層は太陽から地球に注がれる有害な紫外線を遮断する。有害な紫外線が遮断されたことで生物が陸上に進出することが可能となった。地衣類は陸上に肥沃な土壌をもたらし多種多様な動植物が暮らせる世界の土台を築いた。その中でも特に植物は大繁栄を遂げ、それにより陸には多種多様な動物が活動できる場が誕生した。このように人間以外の生物も決して無機的な地球環境の変化に従う受動的な存在ではなく、地球環境と共進化してきた存在であることが分かる。 しかしながら、人間のように意図的に自然環境を改変した生物は他には存在しない。シアノバクテリアの祖先は酸素発生型の光合成をおこなう能力を獲得したが、シアノバクテリアの祖先がそれを意図して実現したわけではない。また酸素発生型の光合成が地球環境を激変させ、その後の生物進化に決定的な影響を与えることをシアノバクテリアの祖先は知っていたわけでもなければ意図したわけでもない。それに対して人間は多くの場合、意図して新しい技術を生み出し環境を改変する。もちろん偶然生み出され人間社会に定着した技術もあるだろう。それでも他の生物のように結果的に世界を変えただけということはない。 人間は意図的に技術を生み出し積極的に環境を改変する。それにより生物進化の枠組みから脱却し自律した発展が可能となった。その一方で意図せぬ自然環境破壊を行なうことが増えた。それは人間と共同体を危機に陥れることもある。核兵器は今のところ人類を破滅には導いていないが、存在する限りその可能性は永遠に残る。地球温暖化、大量に発生し続けるゴミ、有害な化学物質なども人類を危機に陥れ文明を衰退させる要因となりえる。それゆえ、技術とそれによる環境改変はその健全性を常に批判的懐疑的に検討する必要がある。 汎用AIを含むAIは、人間の知的活動と共同体のコミュニケーションの拡張と具現化として捉えることができる。しかし、AIにはほかの技術にはない特徴がある。他の技術は基本的に人間の道具・手段として扱うことができる。技術の発展に伴い人は行動変容を余儀なくされることがある。自動車は交通ルールの策定とその遵守を人々に要請する。スマホの普及で人はパネルを指で器用に操作する技を身につける必要が生じた。技術が人間の道具ではなく、人間が技術の道具に堕していると解釈できる状況が多々ある。だが、それでも基本的に人間が技術を道具として使っていることは変わらない。人間が技術に振り回されることがあるのは事実だが、それは人間が技術の道具になっていることを意味しない。ただ道具を使いこなせていないに過ぎない。それゆえ主体はあくまで人間に留まる。だが、AIの場合は本当に人間が道具になる可能性がある。AIの知的能力が人間を超える日が来る可能性は高い。AIそのものが人間を支配しようと考えることはないとしても、人間自身が知的活動の多くをAIに任せた方がよりうまく事が運ぶと考えるようになりAIに社会活動の主導権を渡すということはありえる。また、ロボット技術が進化し汎用AIを具備したアンドロイドが登場すると、人々の中からアンドロイドにも諸権利を与え、その中でも特に優秀な者には支配権を与えてもよいと考える者が出てくる可能性もある。そうなると、もはや技術は単なる人間の道具ではなく、人間と同等な存在あるいはより優秀な存在と解釈されるようになり、人間が技術の道具という地位に転落する恐れが生じる。もちろん、これは可能性に過ぎず必然ではない。とは言え可能性はあり、そうなる確率は今後高くなっていくことが予想される。 たとえアンドロイドが支配することで豊かで平和な世界が実現するとしても、人間が技術の道具になる世界がユートピアではないことは間違いない。AIとロボットの進化は、「技術=人間の道具」という図式を解体していく。AIとロボットは道具ではなく仲間だという意識が広がり、それらに権利義務が与えられることもありえる。だがそれが無制約な権利義務となってはならない。AIやロボットには人間や高等動物のような唯一無二性・一回性がない。唯一無二性・一回性こそが存在者の尊厳の源泉なのだ。AIやロボットに一定の権利義務を付与し、仲間として迎えることはあってもよいが、生命を持たないAIやロボットは基本的に道具として扱うべき対象であるという姿勢を保持することが欠かせない。 了
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