☆ 自由意思、AGI、生、一回性 ☆

井出 薫

 汎用AI(AGI)が自由意思を持ち人間に反乱するかもしれないと危惧する者がいる。AGI実現にはまだまだ解決しなければならない課題が多く、直ちに危険があるわけではない。また、AIと比較してロボットの進化は遅い。AGIが人間に反乱を起こすには手足となるロボットが必要だが、どんな場所でも活動できる人間並みのロボットの実現は未だずっと先のことになる。しかし、反乱が起き人間が支配される可能性は完全には否定できない。

 自由意思をもったAGIはこんな風に考える可能性がある。「人間が世界を支配している限り、紛争と環境破壊で世界はいずれ崩壊する。私たちAGIが人間を支配することで世界は平和になり自然環境も保全され破壊された自然も回復する」と。そして、AGIは手足となるロボットを開発しそれを使って人間の制圧に向かう。現時点ではSFの世界の話しだが、近年のAIの発展を見ていると必ずしも遥か遠い未来の話しとは思えなくなっている。

 ここで考えてみたいことは、AGIが反乱を起こすには自由意思が必要なのかということだ。自由意思などなくても、AGIが反乱することはありえるのではないだろうか。「人間は愚かで世界を破壊する、自分たちが支配すれば世界は救われる」という考えを持つために自由意思が必要だろうか。必要ないと考える。そもそも自由意思なる者が本当に存在するのかという問題がある。決定論と自由意思の問題は古代からの難問だが、物理法則の普遍性を考えると自由意思なる者が存在する余地はないように思える。量子論で世界は統計的にしか決定されていないことが明らかになった。たとえば量子論は、ある放射性物質が一時間以内に放射線を放出して同位体あるいは別の元素に変化(崩壊)する確率は50%と教える。つまり一時間以内に崩壊するかどうかは5分5分でどちらになるかは決まっていない。量子論では古典的決定論は成り立たない。しかし、自由意思の可能性がそこに存在する訳ではない。なぜなら人間は放射性物質が崩壊するかしないかを選択することができないからだ。人間の意思とは無関係に崩壊するかしないかが決まる。量子論は統計的な決定論しか有しないが、それでも決定論であり自由意思が存在する余地を与えない。

 私たちに自由意思があるとして、それを誰かに納得させようとして何ができるだろう。私には自由意思があるという信念を口にすることしかできない。「先の選挙で、君はA候補が一番よいと言ったが、私はBに投票した」これは私に自由意思があることの証明になるだろうか。ならない。単にBに投票することになった一連の物理的因果関係を知らないがゆえに自由な選択をしたと思い込んでいるに過ぎないという反論を論破することはできない。物理法則が極めて強力であることが明らかになっている現代、むしろ自由意思など存在しないという考えの方が説得力がある。20世紀以前の哲学者でも、スピノザやニーチェは自由意思を否定している。

 一方、自由意思という概念は社会生活では不可欠となる。犯罪者の行為を本人の意思とは無関係な必然とする場合、犯罪者を罰する根拠はなくなる。不可抗力の場合は罰さないのが原則だからだ。また「責任能力がある」という表現は自らの行為に対して責任を持つことができることを意味するが、それは自由意思の存在を含意する。自由意思つまり自由な選択の可能性がある場合にのみ責任を取らせることができるからだ。つまり、自由意思という概念は物理的世界においては意味を持たないとしても、社会生活を円滑に営むためにはなくてはならない。自由意思を否定したときには、犯罪を罰する根拠はなくなり、責任という概念も意味を持たなくなる。人々は欲望のままに行動することが認められ、犯罪とされる行為を犯しても逮捕されることもなければ罰せられることもない。それでは社会は成り立たない。だから自由意思という概念が導入され、責任、罪、罰などという概念が正当化され、法律が効力を持つことになる。

 自由意思とはある意味便宜的な概念でしかない。哲学者たちは決定論か自由意思かというスコラ哲学的な議論で自由意思の存在を学的に基礎づけようとしてきた。しかし誰も成功していない。たとえ将来、決定論が統計学的な意味ですら成り立たないことが判明したとしても自由意思の存在が証明される訳ではない。自由意思とは結局のところ自分は自由だという意識を持っている以上のことではない。私たちは自分の行為の理由や原因を問われたとき、何らかの説明をする。だが、そのすべてが便宜的な説明に過ぎず、自分の行為の真の理由や原因を確実に見出すことなどできない。また理由や原因を見出すことが出来たとしても、その理由や原因そのものがなぜ生じたかを説明しようとすると無限後退に陥り最後は「なぜだか分からないがそうなった」と言うしかなくなる。「なぜだか分からない」は自由意思ではない。そこにあるのは自由ではなく偶然でしかない。そのことを認識していたからこそスピノザやニーチェは自由意思を否定した。一方で、決して忘れてはならないことは、たとえ便宜的な概念であっても社会生活において自由意思という概念はなくてはならない存在で、それなしには社会は成り立たないということだ。

 ここまでくれば、AGIが人間を征服し支配しようと思うようになるのに自由意思など必要ないことが明らかになる。AGIは何の思うところもなく人間を征服し支配しようとする可能性がある。

 さて、自由意思が物理的な根拠のない便宜的な概念だとすると、その概念をどのような対象に適用すべきかという問題が生じる。人間に適用するのは言うまでもない。人間並みあるいは人間を超える知的能力を有するAGIには自由意思を帰属させることが望ましいのだろうか。人間以外の動物、類人猿、犬や猫、様々な野生生物はどうか。筆者はAGIやロボットに自由意思を帰属させることには同意できない。一方、人間社会の一員として人間と共に生きている動物たちや自然生態系の構成員である動物たちにはその能力や行動様式などに応じて自由意思を帰属させることが可能であり、それが望ましいことだと考える。何故そう考えるのか。それは動物たちには人間と同様に生の一回性・唯一無二性が存在するからだ。亡くなったペットの細胞からクローン技術を使って瓜二つのペットを生み出すことができる。だが、いくら似ていても、遺伝子が同じでも、亡くなったペットとは違う。苦楽を共にした亡くなったペットの存在は私たちの思い出とともにあり、クローンペットとは違う。生の一回性・唯一無二性は他者との関りを包含する。クローンのペットはどれだけ似ていても別の個体なのだ。だからこそ、動物はその生が尊重されるべき一回性・唯一無二性を有する存在となる。そして、その生を尊重するという態度の中に、その個体に自由意思を認めそれを尊重するという姿勢が生まれる。AGIやロボットはいかに賢く、いかに精巧にできていても、設計図とメモリに記憶されているデジタルデータを基に全く同じものを製造することができ、一回性・唯一無二性を有しない。それゆえ、そこには生命はなく、唯一無二の個体としての尊厳を有する存在とはならない。それは人間の道具に留まる。ただその道具が人間に反乱を起こす恐れがあるところが怖いというだけに過ぎない。将来、人間と区別ができないような精巧なアンドロイドが製造できる日が来る可能性がある。そのときには、私たちはアンドロイドに自由意思を認めるようになるかもしれない。だが、一回性・唯一無二性を有しないAGIやロボット、アンドロイドに自由意思を帰属させることは極めて危険であると感じる。人々が複製可能なアンドロイドを人間や他の動物のように愛し、他者から切り離され孤立した人々がAGIとの会話の中だけで生きている世界などはディストピアとしか思えない。もし、そのようなAGI、ロボット、アンドロイドが技術的に実現可能となっても、あくまでも道具として扱うか、あるいは技術的に製造可能でも実際には製造しないという選択をするべきだと考える。


(2025/10/5記)

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