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井出 薫
カントはなすべきことを知り、それをなすことが自由の本質だと論じた。そして、人は決して自由を手放してはいけないと警告する。しかし、何がなすべきことなのか、この肝心の問いにカントは明確な答えを与えていない。ただ、「知的存在者であれば誰もが従う格率に従うこと」と述べるだけに留まっている。しかし、他の者が従う格率が何か、私はどうやって知るのか。啓蒙された一人前の大人=知的存在者であれば知ることができるとカントは言う。しかし自分が一人前の大人であると自信を持って言える者は多くないし、言えると自負している者はたいてい自信過剰で信用できない。また、立派な大人同士で意見の相違が生まれることがあるし、時代と共に正しいとされる意見が変化することもある。同性愛が悪徳あるいは病気とされた時代があったが、今では異性愛と同等の権利が認められている。カント哲学だけでは個別的・具体的な事例において人は何をなすべきかという問いには答えられない。 ルソーは、人間社会には特殊意志、全体意志、一般意志があるという。特殊意志は個々の構成員固有の意志であり、たとえば減税を望む、賃上げを望む、物価の安定を望むなどが例として挙げられる。全体意志とは特殊意志を持った構成員全体の意志を意味する。民主主義では多数決で採決された多数意見が全体意志とみなされる。先の参院選では消費税減税を公約する政党が多くの票を集めて勝利した。ここから消費税減税が現時点での日本国民の全体意志であると言える。しかし全体意志が本当に社会全体の利益に繋がるかどうかは分からない。そこで、ルソーは全体意志とは別に社会全体を本当に良くする=共同体に属するすべての人々が等しく幸福になるような共同善を志向する一般意志なるものが存在すると論じる。全体意志は往々にして狭い視野、短絡的な思考、感情的な反応などに支配される。太平洋戦争は軍部だけではなく一般国民の強い支持により勃発した。全国民の投票で戦争するか否かを決めたとしても戦争になった。当時の日本では米国と戦うことが全体意志だった。だが言うまでもなく、この全体意志は日本社会を良くするどころか破壊した。要するに全体意志が正しいかどうかは時と場合による。ポピュリズムの危険性は全体意志が万能(全体意志=一般意志)であるという錯覚に陥りがちなところにある。しかし、ルソーの論理が正当だとしても大きな難題がある。全体意志は代議制民主制においては選挙と議会における多数決で知ることができる。しかし一般意志は誰がどうやって知ることができるのか、これが一般意志だと言える基準は何か、ルソーはこういう問いに対して明確な答えを用意していない。ルソーは民主主義、人権思想、平和思想の土台を築いた。だが、一方で、一般意志が具体的に何であるかが不明確であるために、独裁的な政党が自らを正義の体現者つまり一般意志の主導者と宣伝し、意見を異にする者を排除し独裁的な社会を築くことにも繋がった。ルソーは薬でもあるし毒でもある。 カントとルソーの共通する難点は、なすべきこと、一般意志が具体的に何なのか、それが妥当であると判断するための基準は何かという問いに答えていないことにある。私たちは抽象的な世界に生きているのではなく、現実世界に生きている。そして日々現れる課題は多様で複雑で同じものは二つとない。そして、私たちはそのような課題に対して現実的な案を策定し実行する必要に迫られている。カントやルソーの理念は素晴らしいが、それだけでは現実には無力であるか、あるいは真逆の独裁的な社会に繋がってしまう。 ヘーゲルは、カントやルソーの哲学思想の空疎さを克服するために壮大な哲学体系を構築した。その体系において、ヘーゲルは人倫を自由の理念とし、人倫の最上位に位置する国家を具体的な自由の体現者だとした。つまり国家において人々はなすべきことを知り、なすべきことをなすことになる。しかし、ヘーゲルの体系は徹頭徹尾観念論で、ヘーゲルの人倫もまた抽象的な世界の思弁でしかなく、具体的な問いへの解答にはならない。しかも現実の国家は正義の体現者にはほど遠い。マルクスとエンゲルスはヘーゲルの観念論を否定し階級闘争を歴史の核心として共産主義実現を人類の目標とする革命思想を提唱した。マルクスとエンゲルスは一つの具体的な解答を与えたと評価できる。しかし、マルクス主義者たちはマルクスの哲学思想を神格化し、それこそが一般意志であると宣伝し、意見を異にする者を排除し独裁的な体制を構築した。抑圧された者たちを解放することを目指した共産主義運動は独裁社会へと転落した。ルソーの一般意志の危険な側面が露呈したとも言えよう。 最大多数の最大幸福をスローガンとしたベンサムなど功利主義者は、より多くの者をより幸福にすること、不幸な者を可能な限り少なくすることが正義だとして、なすべきことの基準とした。これは分かりやすく、現代では常識の一部になっている。しかし、幸福・不幸が具体的に何なのかが問題として残る。貧しく人から蔑まれようと常に真善美を探求し正義をなす者こそ真に幸福な者だと主張する者もいるし、世俗的な成功、富、地位、名誉、よき家族を獲得することが幸福だと主張する者もいる。後者だとすると、幸福の増大が必ずしも正義と合致しない可能性がある。国民は豊かで満足しているが倫理的には堕落しているということがありえる。だからと言って前者をとると、真善美とは具体的に何か、正義とは具体的に何かというカントやルソーに現れた原理的な難題が再び現れ、具体的な行動基準となるという功利主義の利点が失われる。 哲学的な思索だけで何をなすべきかという問いに答えることはできない。答えることができない問いに無理やり答えを与えようとすると独断的な行動、独裁的な社会を招いてしまう。だが、答えることができないと言うだけでは先に進むことができない。それに対してハーバーマスが提唱する熟議と合意形成という思想は一つの回答となりえる。現実世界には絶え間なく新しい課題が生まれ、解決されていない課題が多数あり、解決済と考えていた課題を再吟味しなくてはならないこともある。それらを一挙に解決する魔法の杖など存在しない。熟議と合意形成を通じて暫定的な解決策を策定実行し、またその結果を見て再吟味する。こういう過程を続けることが社会を改善することになる。デューイ、アーレント、ローティなどの思想もハーバーマスと類似点が多い。ロールズも熟議と合意形成の重要性には同意する。ただ、これも現実的には難点がある。現代社会は余りにも多様化し複雑化しているために、多種多様な課題が無数にあり、また課題同士が複雑に絡み合っていることが多い。課題に関与する人々も数が多く且つ様々な層からなり熟議も合意も難しく権威者や専門家の意見で解決策を決めざるを得ないことが少なくない。また課題に対する解決策も多数あり専門家でもどれが最適か遣ってみないと分からない場合も多い。こういう現状を考慮すると、熟議と合意形成という理念が非現実な理想に過ぎないと評価せざるを得ない局面が多いことが分かる。 現代社会は様々な課題を抱えている。民主主義の行き詰まりを指摘する者も多い。だが、総じて言えばこれまで人類は多くの課題を解決し、改善してきた。奴隷がいた古代は勿論、封建社会や労働者が家畜扱いされていた初期の資本主義社会よりも、現代は経済面だけではなく倫理面でも大幅に改善されている。それゆえ悲観論に陥る必要はない。とは言え、倫理的な側面では、今以上の進歩は望めず、科学技術の発展と産業の拡大で人々は益々孤立した存在となり自己の利益確保だけに執着するようになるという可能性は否定できない。特定の哲学思想や政治思想に過剰な期待をすることはできないし危険でもある。しかし、適宜、様々な哲学、政治、倫理に関する思想を参照しながら、一人一人が現実の課題に対して「何をなすべきか」を真摯に考え周囲の者たちと議論することで道を開くことができると信じたい。 了
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