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井出 薫
物理学は自然科学の基礎だと言われる。人文社会科学も物理学で基礎づけようとする者もいる。しかし、自然には階層性があり物理学で全てが説明できるわけではない。すべての相互作用(重力相互作用、電磁相互作用、強い相互作用、弱い相互作用)を統一する究極理論が完成しても、自然現象がすべてそこから導き出せる訳ではない。たとえば、どのようなウィルスが存在するか、ウィルスがどのように変異するかは物理学の究極理論では分からない。ウィルスを解明するにはウィルス研究独自のモデル・道具が必要になる。ただ、自然科学のどのような分野も物理学の基礎的な原理や法則(たとえばエネルギー保存則)と矛盾する理論は認められない(ただし、そのことが証明された訳ではない。あくまで多くの自然科学者が信じる仮説にすぎない)。それゆえ物理学は自然科学諸分野の研究に強い制約を課す。その意味では物理学が基礎的な学であることは間違いない。しかしながら、物理学には物理学では説明できない暗黙の前提がある。それは言語が存在し、人々が言語を使って物事を考え、他人とコミュニケーションをして社会を形成しているという事実だ。この前提があってこそ物理学が成立する。言語は物理学に先立つ。物理学は数学など日常言語とは異質な特殊記号を多用する。しかし、それらの特殊記号は日常言語の拡張であり、それを学生や一般市民に教えたり、専門家同士で議論したりするときには日常言語を使う必要がある。数学の記号を羅列しただけでは一般市民や学生だけではなく専門家も理解できない。つまり物理学は拡張された言語を土台として初めて存在しうる。また拡張された言語は日常言語があって初めて成立可能となる。そして「なぜそうなのか」は物理学では説明できない。同じことは物理学以外の自然科学、数学や論理学、人文社会科学にも成り立つ。それゆえ、自然科学や人文社会科学、数学などの学を含め、あらゆる物事を徹底的に懐疑し思索する哲学にとって言語は必然的に探求の主題となる。 「なぜ存在者が存在し、無ではないのか」この存在者と存在に関する問いは、言語と同様に物理学などあらゆる自然科学に先立つ。また数学や人文社会科学においても事情は変わらない。数や図形、人や社会、その歴史的事情も存在者に該当するからだ。当たり前のことだが存在者が存在しなければ如何なる学も存在しない。人間も存在しないのだから、学を展開する者はいない。つまり学も存在しない。これは無意味な議論に思えるかもしれない。しかし何か事物を頭に思い浮かべ、その属性を考えるとこの問いが無意味ではないことが分かる。机には形、色、大きさ、重量など様々な属性がある。属性のほとんどはそれが存在しないことを想像することができる。形がないもの、色のないもの、大きさがないもの、重量のないものを考えることはできる。だが、存在しないものを考えることはできない。考えることができるのであればすでに存在することが確定している。無という言葉を私たちは頻繁に使うが、それは特定の存在者の存在を否定するという形でしか使用できない。それゆえ机の属性を次々と捨象していっても無に達することはなく、存在という属性が残る。物理学が意味をなすのは存在者が存在するからで、無ではないからだ。宇宙論では無からインフレーションとビッグバンで宇宙が誕生したなどと語られることがある。だが、そこで引用される無とは宇宙誕生の源泉となった(現在の物理学では解明されていない)何かを意味しているのであり、やはりそれが存在者であることに変わりはない。要するに、存在(者)は物理学、いや全ての学に先行する。だからこそ、ハイデガーは「存在とは何か」が哲学の第一問題だと語った。哲学は存在の問題を回避できない。存在も言語の一つであり、言語を探求することで存在も自ずから明らかになると考える者がいるかもしれない。しかし、属性を考えるとき存在が比類なきものであるように、言語体系においても存在は比類なき地位を持つ。それゆえ、言語を徹底的に探究すれば存在の問題も解決すると考えることはできない。存在は存在として探求する必要がある。 「世界は何であるか」という問いがある。「世界は物質である」と考えるのが唯物論、「世界は精神である」と考えるのが唯心論あるいは観念論、「世界は物質と精神からなる」と考えるのが心身二元論、などと論じられることがある。しかし、世界という概念は曖昧で、物質、精神という概念も同じように曖昧で、この問いは、問い自身も答えも不明瞭なものにしかならない。この問いをより明確に記述すると「世界に存在する者はどのような性格をもつか」という問いになる。だが、これとても、世界という概念の曖昧さは解消されていない。物理学者は世界を宇宙と考える。そして人間社会もまた宇宙の一部だと考え、宇宙を解明する物理学こそ真の基礎的な学だと語る。しかし哲学者マルクス・ガブリエルは、「宇宙は世界ではない。宇宙は物理学者の頭の中にある世界の一領域でしかない。世界は宇宙の他にも多様な領域が存在し、また日々至る所で新たな領域が広がっている。世界は開かれており、世界は存在という言葉では語れない」と指摘する。マルクス・ガブリエルは観念論者だと批判することは容易いが、世界という概念は多義的で、学の分野により、あるいは論者により多様な意味を持たされていることは事実だ。また空想上の産物や芸術活動を通じて世界は常に拡張されていることは間違いない。道徳規範や生の意義などは、それを論じる人間の身体は物理学的宇宙に属するとしても、物理学的宇宙とは異なる領域にある。また、世界は、存在と同様に、言語体系において比類なき地位を占め、言語分析で解明することはできない。 言語、存在、世界は、物理学を始めあらゆる学を超えた何かであり、個別の学では、精々、その分野に適した便宜的な定義や解釈がなされるに過ぎない。哲学は現代においては、倫理的な問題を議論するときに援用されるだけで、それ以外では無用な学と貶されることが多い。しかし、これらの根源的な概念、あらゆる学の根底にあるものを解明するには哲学が欠かせない。たとえ個別科学がどれだけ進歩しようとも、人間社会が目覚ましく倫理的に改善されたとしても、哲学が不要になることはない。ただし、哲学を過大評価してはならない。哲学もまた言語を使って初めて論じることができる。瞑想の中で真理を会得することができたとしても、それを広く人々に伝えるためには言語化しなくてはならない。また会得した本人もその真理を言語化する必要がある。言語化することで初めて真理は普遍的なものとなる。さもないと会得したはずの真理はすぐに幻になってしまう。つまり哲学自身が言語を前提しており、言語を超越している訳ではなく、超越することもできない。それゆえ哲学は常に言語で言語を語るという自己言及的な性格を持つことになる。そのために、哲学が一般読者に堂々巡りの無意味な思索という印象を与えることは避けがたい。しかも、その印象は間違っていない。哲学は何を論じるかにもよるが、一般的に問題と問題の所在を指摘することができるだけで、問題を解決することはできないと言わざるをえない。一方で、個別科学は、言語を土台とするとは言え、現実への応用において言語を超えている。自然科学と数学は、自然を解明するだけではなく、建造物、家具、各種器具、人工衛星、航空機、自動車、コンピュータ、ワクチン、抗菌物質、プラスチック、肥料など様々な人工物を生み出す。言うまでもなく、それらは現実世界に実在する物であり、言語を超えている。人文社会科学も、政治体制、経済体制、法、社会規範、歴史認識などを生み出し、それらの現実社会における活用を通じて言語を超え人々の実践を導いている。これらの実践とその帰結は言語の世界を超えている。このように言語を土台としつつ言語を容易に超えている点で、個別科学が哲学よりも遥かに有用で、様々な場面で多くの応用がなされ社会に貢献していることは間違いない。ただ、それでも、人間が世界内に存在し、言語を使用して共同体の一員となり様々な知見を共有し自分自身の人格を形成していく存在である限り、哲学が不要となることはない。 なお、言葉、存在、世界以外に、真、善、美が哲学の根源的な主題となるのではないかという異論があるかもしれない。しかし、真、善、美は、言語、存在、世界を論じる過程で自ずから現れる二次的な概念だと考える。 了
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