![]() |
![]() |
![]() |
||||||||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
![]() ![]() |
![]() ![]() |
井出 薫
自由意思と決定論の問題は哲学の主要な課題の一つに挙げられる。本サイトでも幾度となく取り上げた。だが、よく考えると、この問題は疑似問題に過ぎず、意味のない問いなのではないかと思えてくる。 私に自由意思があるとして、私はそのことをどうやって証明することができるだろうか。同僚と一緒に昼食をとりに食堂にいく。ショーケースにカレーライス、焼き魚定食、餃子定食、天ぷらうどんが並んでいる。値段は均一で、どれも私の好物だ。私はここ数日の食事を思い起こし暫く考えてカレーライスを選んだ。私は私の自由意思によりカレーライスを選択したと言ってよい。同僚に強制されることは一切なく、店の人に勧められたわけでもない。完全に私一人の意思でカレーライスに決めた。同僚はカレーライスを選んだ者もいるが、他のメニューを選んだ者もいる。もし同僚に「俺はカレーライスにする、お前も合わせろ」と言われて、カレーライスを選択したとすると、その選択は自由意思に基づくものではなかったということになる。コンビニの入口で、いきなり身体の大きな見るからに屈強な男に刃渡り30センチの包丁を突きつけられ、「コンビニから万引きしてこい、言うことを聞かないと殺す」と脅される。やむなく消しゴムを万引きしてきたが、「こんなケチなものを盗んで何になる」と怒鳴られ顔を殴られ骨折する。消しゴムを盗んだのは不可抗力であり自由意思によるものではない。骨折も私の自由意思によるものではない。 しかし、2番目の事例では同僚に逆らうという選択肢があり、3番目の事例でも勇気を出して万引きを拒否することもできたし、店員に万引きを強要されていると告げることもできた。他の選択肢があったのだから、私の行為はやはり自由意思による行為だった、という意見があるかもしれない。しかし、法的には3番目の事例では私の行為は脅かされて命を守るためにやむなくとった行動で罪には問われない。2番目の事例でも同僚が粗暴な人物だったら、あるいは弱みを握られていたら逆らうことは難しい。昼食時、歩道を歩いていると鰻を焼く匂いがしてきた。思わず店に入り蒲焼を注文する。これは自由意思によるものだと言ってよいだろうか。そうだと言う者もいるし、反射的な行動に過ぎないと言う者もいるだろう。このように、行為が自由意思によるものかどうかの判断は難しい。それを証明することはなおさら難しく実際は不可能だろう。 最初の事例では、私はここ数日の食事を思い出し、何が一番良いかを考え、結果としてカレーライスを選択した。だがその思考は必ずしも理路整然としたものではない。たとえばカレーライスは暫く食べておらず、他の3つのメニューは最近食べたというのがカレーライスを選択した理由だとしよう。しかし、暫く食べなかったものを選ぶことが当然だというわけではない。健康を優先して別のメニューにすることもありえた。つまりこの選択には偶然的な要素が含まれている。この例に限らず、私たちが何かを選択するとき、如何に熟慮したとしても偶然的な要素を完全に排除することはできない。また、特定の偶然的要素を排除したとして、なぜそれを排除したのかは私には分からず、結果的にそうなったとしか言えない。結果的にそうなったというのであれば、そこに自由意思があるとは言えない。なぜなら結果的にそうなったということは外的な原因の存在が示唆されるからだ。外的な原因が存在するならば自由とは言えない。 このことは、私たちが自由意思を持っていることを、そして様々な行為や選択が自由意思によるものであることを証明することができないことを示唆している。私たちは、「自由」、「自由意思」などという表現を使って他者とコミュニケーションを行ない、たいていの場合意思の疎通に成功する。その事実があるだけで、自由とか自由意思という概念に、コミュニケーションが成り立っているという事実以上の何か、形而上学的な意味や真理があるわけではない。 決定論つまりすべては決定されているという概念にも似たようなことが言える。世界は普遍的な物理法則で全てが決まっているという主張は決して証明されたものではなく、私たちが世界を超越することができない以上証明することなどできない。宇宙誕生のごく初期、たとえば1秒までは一般相対論も量子論も成り立っておらず、それが現実と合致するようになったのは1分後で、ただ最初から両者が成り立っているかのように見えているだけだという可能性は否定できない。また、遥か100億光年の先では地球上とは異なる物理法則が成り立つ、たとえば重力や電磁力は逆二乗則ではなく逆三乗則に従うなどということも絶対にないとは言えない。また、1億年後には物理法則は全く違ったものとなる、あるいは物理法則そのものが存在しなくなるという可能性も否定はできない。物理法則の時空を超えた普遍性という私たちの信念は決して物理学の研究から導出されたものではない。むしろ逆であり、物理学研究が物理法則の普遍性を前提としている。さらに、哲学的ゾンビの思考実験からも示唆されるとおり、意識という現象は物理法則では説明が付かないと推測される。それゆえ物理法則の普遍性は限定された領域においてのみ成り立っている、正確に言えば、特定の領域においてのみ適切なモデル・道具だということになる。 自由意思も、決定論も、コミュニケーションで使われるという事実があるだけで、これらの概念はその事実以上の何か、つまり形而上学的な意味や真理を持つものではない。要するに、自由意思と決定論の問題は、前期ウィトゲンシュタインの『論考』を引用すれば、疑似問題であり、後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という観点を参照すれば、言葉の使用の問題に過ぎないということになる。そして、そのことを知ることで、この哲学的に混乱した思考から抜け出すことができる。それにより「蠅に蠅壺の出口を示す」ことになる。蠅壺に迷い込んで出られなくなっているのは言うまでもなく、自由意思、決定論をいずれも形而上学な意味と真理を持つと暗黙裡に仮定し哲学的議論に嵌っている哲学者や筆者のような哲学愛好家たちなのだ。 了
|