☆ AI、人間、意味、創造 ☆

井出 薫

 AIと人間の知能を比較すると3つの領域に分かれる。AIにはできるが人間にはできない、AIでも人間でもできる、AIにはできないが人間にはできる、この3つだ。もちろんAIにも人間にもできないことが無数にあるが本稿の議論とは関係がないので省く。

 膨大なデータの分析や巨大な数の演算などは第一の領域に属し、他にもコンピュータが発明されて初めて可能になったことは多い。2番目と3番目の境界は曖昧かつ流動的で、コンピュータ誕生当時はAIにはできず人間だけに出来る領域は広かったが、今ではAIの進歩で人間だけにできる領域は日々狭くなっている。囲碁や将棋がこの例に挙げられる。パターン認識もかつてはAIの不得意な分野とされていたが今では人間を凌ぐようになっている。十年前までは自然言語処理は極めて難しい課題だとされていたが、現在ではかなり自然な会話ができるところまで進化している。翻訳は精度があがり、通訳も実用化する日が近い。

 それでは、AIが進歩すれば人間だけができる領域は消滅するのだろうか。意見は分かれる。AI開発者など理系の学者、技術者はこの問いに肯定的に答える者が多く、哲学者や哲学志向の強い学者などには否定的な意見が多い。

 否定的な意見の論拠としてよく引用されるのが「AIは規則に従って記号を処理しているだけであり、言葉の意味を理解していない」という論法だ。哲学者サールが提唱した中国語の部屋という思考実験では、部屋の中に中国語を全く知らない男が入っている。そこに外から中国語の文章を入れる。男はそれが中国語であることすら知らないが、変換規則表を使ってそれを英語に変換する。そして、変換した文章を外に送る。この部屋は中国語を理解し英語に翻訳しているように見える。だが、部屋の中の男は中国語の意味を全く理解していない。処理速度の違いはあるが、AIの遣っていることはこの中国語の部屋と同じで、意味を理解しておらずただ変換規則に従って処理しているにすぎない。近年のAIの進歩は、深層学習という手法を使ってこの変換規則を自動的に生成し適宜修正するという機能を具備することで実現した。だが、それでもAIが意味を理解していないことに変わりはない。これがAIは意味を理解していないという論法だ。東ロボ君プロジェクト(東大に合格するロボットの開発プロジェクト)の中心人物であった新井紀子もAIは数学に基づいており、数学は意味を扱うことができない、よってAIにはできないことがあると論じている。人間は下手な字でも上手な字でも、手書き文字でもディスプレイ上の字でも「日本の首都は東京です」という文を同じ意味として理解する。つまり人間は文字の形状ではなく、文や単語の意味を理解している。それがAIにはできないという。そして、意味を理解できないために、ただ言葉や文章を、膨大な数の学習結果を統計的に処理して獲得した規則やデータを参照して生成しているだけに過ぎず、人間のような創造的な仕事はAIにはできないと結論付ける。

 しかし、この議論には難点がある。まず、意味とはそもそも何かという問題がある。ちなみに「意味」単独では意味を持たない。「意味」という概念は常に「意味の理解」という観点で論じることで初めて意味がある。「理解できない意味」なる者は意味がない。いや、意味がないという意味があるとデリダの信奉者ならば言うかもしれないが、詭弁でしかない。意味を論じるときには常に暗黙裡に「意味の理解」が問題とされている。それでは、この意味での「意味(の理解)」とは何を指すのだろうか。これは古代からの哲学的な難問で、未だかつて誰一人として誰もが納得するような答えを出した者はいない。確かに、私たち人間は文字や音声の物理的形状ではなく、それとは別の何かを理解して活動している。そして、それを意味と呼んでいる。しかし、いま述べた通り意味が何なのかは少なくとも現時点では満足いく答えはない。ただ、この意味なるものが、新井が言うように数学で表現できない者なのかどうかという点が重要な論点であることは間違いない。

 新井は数学で表現することはできないとするが、できると考える者も多い。数学で表現できれば、アルゴリズムが存在し、それをAIに組み込むことができる。そうなればAIにはできないが人間にはできることがあるとは言えなくなる。チョムスキーの生成文法理論では、意味論(セマンティック)は統語論(シンタックス)に還元される。それゆえ、意味(の理解)は、規則の集積体とネットワークと考えることができるからアルゴリズムを生成することができ、AIで処理することができる。また、脳の物理的な構造と機能は数学的に電子回路と等価であり、脳にできることはAIにもできる、意味なる者を数学で処理できないというのは自分の脳が何をしているか知らない人間が抱く錯覚に過ぎない。こういう論理を展開する者も多い。古くはガリレオが「自然という書物は数学という文字で書かれている」と述べているが、ガリレオが正しければ、人間の脳も数学で記述でき、意味の理解も、それにより可能となるとされる創造性もAIで実現できることになる。しかし、生成文法の理論は広く活用されているが、それが脳の働きを表現する正しい理論だという確固たる証拠はない。少なくとも現時点では「そういう風に考えることもできる」という段階に留まっている。電子回路と脳が等価だというのは抽象的な次元において成り立つことであり、半導体電子回路と生体高分子からなる脳のネットワークでは本質的な差異が存在する可能性は決して否定できない。等価であるとする思想はガリレオの思想を暗黙裡に前提している。ではガリレオの思想は正しいのか。これもまた意見が分かれる。少なくとも証明されたことではない。筆者のモデル・道具論の立場からすれば、「自然という書物は数学という文字で書かれている」というよりも、「自然界には数学により記述できる領域があり、その領域は数学と自然科学でモデル・道具を生成することで解明することができる。しかしながら、数学により記述できる領域が自然界の全領域であるという保証はない」ということになる。さらにモデル・道具とその対象となる自然界とは決して解消できない差異があるという点からも、数学万能論的な思想には同意しがたい。

 パスカルは人間精神には幾何学的精神と繊細なる精神の二つの領域があると論じている。パスカルの思想は難解且つ曖昧で、幾何学的精神と繊細なる精神との違いは明確ではなく、それが論じられている著『パンセ』でも場所によって両者の意味合いが違っていたりする。だが、幾何学的精神が数学的な記述であり、繊細なる精神は数学的な記述に還元することができないものだと考えることはできる。だとすると、パスカルは世界をすべて数学で記述できるとする立場を否定していることになる。

 この問題に最終的な答えを与えることはおそらく不可能だろう。モデル・道具論は意味の理解や創造性を数学的な論理に置き換えることが可能つまり人間知性にできることは何でもAIで出来るという立場に疑念を抱かせる。但し、それは決して数学で記述できない領域が存在することを証明するものではない。ただAIも人間も物質であるから人間にできることはAIにもできるはずだという素朴唯物論的な思想は決して自明なものではないということを指摘しているに過ぎない。

 この論議に理論的に決着が付かないとすると、AIの研究開発を進めることで、人間ができることをすべてできるAIを作ることができるかどうかを実際に確認するしか道はない。そのためにはまだまだ長い道のりが必要で、45年にシンギュラリティが来るなどという楽観論は成り立たない。ただ、筆者の感想を述べると、人間における「意味の理解」には生物学的な身体が不可欠であり、人間と同じ身体を持たないAIには人間にできてもできないことが残るように思われる。但し、もちろん、これも証明することはできない。また、人間のみに可能な領域が残るとしても、その領域はどんどん狭くなると予想され、やがて人間が社会的な観点から、AI搭載のアンドロイドを人間と同等の知能を持つ者として認知する時代が来る可能性はある。


(2025/4/13記)
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