☆ 幸福と政治 ☆

井出 薫

 ベンサムは道徳の基本を「最大多数の最大幸福」と表現した。日本国憲法13条にも「・・幸福追求に対する国民の権利は、・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書かれている。日本に暮らすすべての人々を幸福にすることこそ国の役割だと論じる者もいる。幸福は重要であり、道徳だけではなく政治においても重視される。菅直人元首相は「最小不幸社会の実現」を政治理念に掲げていた。しかし、幸福とは何か、それをどう評価し、それをどう人々の行為や政治に反映させるべきかというと、答えは簡単ではない。

 3人(A、B、C)からなる国Xがあるとする。AとBの幸福度は100点満点で80点、Cの幸福度は40点、三人の合計は200点になる。別の国Yでは、三人(D、E、F)とも60点、合計で180点だとする。さて「最大多数の最大幸福」という観点からどちらの国がより善いだろうか。合計ではXが優る。しかし平等を重視する者はYの方が善いというだろう。また50点を幸福/不幸の境界点だとすると、Xでは幸福な者が二人、Yでは三人だからYの方が善いということになる。政策PをX国で実施すると、AとBの幸福度はそれぞれ10ポイント下がり70になり、代わりにCの幸福度は20ポイント上がり60になるとしよう。幸福度の合計は前後で変わらない。しかし幸福度が下がるAとBは政策Pに反対すると予想され、多数決で採決すると政策Pは否決される。この例は多数決を基本とする民主主義が必ずしも社会の公平化を促進するとは限らないことを示唆している。

 このように幸福を政治や道徳の基礎的指標とすることには様々な問題がある。さらに幸福度をどのようにして評価するのかという課題がある。ベンサムは幸不幸と快楽苦痛を同一視し、後者を定量的に測定することができると言う。だが、幸不幸と快楽苦痛を同一視することには疑問が多い。酒好きは酒を飲むことで快楽の量を増やす。しかし、健康上は酒を飲むことは望ましくない。飲酒が祟って病気になれば不幸になる。未解決の数学の難問を解くことができた時に得られる快楽と、酒を飲んだとき又はギャンブルで勝った時に得られる快楽は量的には同じだとしても質が違う。前者の快楽がより高く評価されるべきで、それは本人を幸福にするだけではなく社会全体に利益をもたらす。このように幸不幸と快楽苦痛を同一視することは妥当とは言い難い。また同一視したとしても客観的且つ定量的に快楽苦痛を測定する方法など存在せず必ず恣意的な評価になる。さらに本人の幸福感と第三者からみた当該人物の幸福度が異なることもある。収入が少なく資産もなく古く狭い家に暮らし親族はなく友人も少ない、周囲から見ると不幸に思えるが本人は幸福だと感じていることがある。一方、高収入で大資産を有し、広くて快適な居住環境で暮らし、仕事も順調、家庭も円満、健康上の問題もない、周囲から見ると羨ましい限りだが、本人は幸福ではないと考えていることもある。また、幸福感は日々変わる。満足して暮らしていた者でも重い病を患うと幸福感は大幅に減少する。また幸福は環境に大きく依存する。自宅の周辺環境が大きく変わり、不便になった、自然を失ったなどと嘆く者は数限りない。逆に良くなったと喜ぶ者もたくさんいる。出世競争のライバルに先を越されると負けた者は落胆し、あるいは嫉妬に苛まれることになる。幸不幸は評価が難しいだけではなく、評価できたとしても刻一刻と評価値は変わる。また本人評価と第三者評価が異なることも多く、その場合どちらを優先するかという問題が生じる。さらに未来が予測できないことを考慮すると、幸福の客観的で定量的な評価は現実的には不可能だと言わなくてはならない。

 さらに「そもそも幸福とは何か?」という哲学的な問題がある。アリストテレスは幸福とは善い人間になること=善く生きることだという。アリストテレスが述べる「善く生きること」は世俗的な成功、例えば、たくさんの富を得ること、名声を得ること、権力を握ること、などではない。たとえそれらを得ても不正な手段で得た場合は善く生きたことにはならない。逆に富、地位、名誉には無縁でも、よく学びよく考えて叡智を身につけ、常に正しい行いを心掛け実行してきた者は善人=幸福な人になる。このような思想は幸福と正義が合致することを求めている。この考えは分かりやすく支持も得やすいが問題は残る。正義とは何かという問いが残っている。これについては古今東西の賢人、偉大な宗教家や学者が様々な思想を提唱したが、一致している点もあるとはいえ、多くの点で異なっており統一的な見解はない。そのため、思想信条、宗教の違いが諍いの種になることが多い。さらに人間は善人になりえるかという問いもある。イエスは誰もが罪人であり過ちを犯すと説く。事実、最良の弟子ペテロすら最後の晩餐のあとイエスを裏切った(ただしペテロは悔い改め命を賭してイエスの教えを人々に伝え殉教した)。親鸞もまた、すべての人間は悪から免れることができないと人々を諭した。このように哲学者が理想とするような善人=幸福な者になることはできないという思想もある。現実問題としても人間誰もが過ちを犯し、嘘を言い他人を騙し、私利私欲に走り、他人の不幸に冷淡であることが多い。そんなことは一度もないという者が居たら、その者は嘘つきか愚か者だと思ってよい。イエスや親鸞は人間の本質を見抜いていた。それゆえ、幸福=正義だとすると、幸福な人間などいないということにもなる。

 人々を幸福にし、幸福になれる社会を作ることが、政治の重要な課題であることは言うまでもない。民主的な社会では、それこそが最上の政治目標だとも言える。だが、ここで論じてきた通り幸福は評価が難しく、幸福の分配の仕方でも議論が分かれる。また興味深いとは言え抽象的な哲学論議を、現実の課題を現実的に解決する必要がある政治にそのまま持ち込むことはできない。結局のところ、人々の幸福度を向上させると推測される政策を実行することが望ましい、ということくらいしか言えない。物価上昇を超えて可処分所得を増やす、治安秩序を維持する、医療衛生環境を改善する、教育環境を充実させる、自然環境を保全する、人々のコミュニケーションの場を拡充する、など人々の幸福度を増すと推測される政策を実行することが、幸福な社会実現という政治理念に相応しい。とは言え、経済的に豊かになっても不幸な者はいる。豊かになったばかりに親族で相続争いが起き不幸になったなどという事例は枚挙に暇がない。一方で貧しいが幸福な者もいる。また、先の例でも示したとおり他人の不幸に同情しても身銭を切るのは嫌だという者は多く、社会の公平化の妨げになることが少なくない。経済学でよく引用されるNIMBY問題(Not In My Backyardの略、「我が家の裏庭には置かないで」の意味、たとえば、ごみ処理場の必要性は認めるが自宅の裏庭(実質的には「近くに」を意味する)に作ることは認めないとする住民の意思や行動を指す)もしばしば発生する。ある自治体では市民の反対でゴミ処理場が建設できず近隣の自治体にゴミ処理を委託していた時期があった。つまり各人の幸福追求権が干渉しあって結果的に当事者すべてが不幸になったり不幸な者が不幸なままに放置されたりすることがある。そして、民主主義は往々にしてその解決に失敗する(NIMBY問題は中国のような国では起きる可能性は低い)。

 幸福は個人、家族、各種共同体、国家、国際社会、いずれにおいても極めて重要な目標となっている。だが、本稿で繰り返し述べてきた通り、幸福とは何か、幸福をどう評価するか、幸福をどのように分配するか、各人の幸福追求権が衝突するときにはどうするべきか、など解決が極めて難しい課題がたくさんある(注)。民主主義国に暮らす者は往々にして民主主義が最も人々を幸福にすると信じているが、必ずしもそうではない。このように幸福の問題は難しい。自らの幸福と社会全体の幸福を願っても、その通りにはならないし、自分の幸福が他人の不幸を招き、その逆の場合もある。幸福を哲学しても大して役に立たないが、幸福は哲学せざるを得ないテーマの一つだとも言える。ただ一つ言えることは、自分の幸福を考えるときには、同時に他人の幸不幸についても考慮する必要があるということだ。だが残念ながら自らを省みると痛感するが、それを実行することが実に難しい。
(注)そもそも幸福が道徳や政治の目標だという思想が正しいのかという問題もある。ニーチェならそのような思想は弱者のルサンチマンだとせせら笑うに違いない。プラトン、カント、アーレントなどは、正義と幸福は異なり、大切なことは幸福ではなく正義だと論じるだろう。しかし、正義のために自らの幸福を捨てることが時には崇高な行為として称賛されることがあっても、ほとんどの者は幸福を望み不幸を避けようとする。また正義のために幸福を犠牲にしなくてはならないような社会は決して望ましいものではない。


(2025/3/27記)

[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.