☆ 法の支配と自然法 ☆

井出 薫

 法の支配と法治主義は違う、法の支配の反対語は人の支配だ、などと言われる。しかし、法の支配の概念は曖昧で、その正当性の根拠も定かではない。

 法治主義の社会では法に基づき国家の活動が遂行される。立法、行政、司法、いずれも法に基づかない恣意的な運営は許されない。独裁者の恣意で成り行きが決まることもない。その意味では法の支配と法治主義はよく似ている。ただ違いはある。法治主義では法に従えばよいのに対して、法の支配は法の在り方についても制約がなされる。法は現実的には人が作る。宗教では法は神や仏の教えとされるが、その場合でも信徒たちが誰でも理解できるような形の法を定めるのは開祖や聖職者など、人だ。法は人が定めるという点を強調する哲学的な立場を法実証主義や実定法主義などという。この立場では法の正当性は手続きや討議を通じて人が決める。人を超えた法や法解釈は存在しない。

 一方、法の支配はより強い制約を人と法に課す。たとえ法的に適切な手続きをとったとしても許容できない法がある。日本国憲法では前文にこの憲法に反する憲法や法はすべて無効と記されている。その中には憲法改正も含まれる。96条で衆参両院で3分の2以上の賛成があれば改正案が国民投票に掛けられ、国民投票で賛成が過半数を占めれば憲法は改正される。だが、憲法の改正には限界があり、この一連の手続きが遵守されたとしても、憲法改正が認められない場合がある。たとえば基本的人権を制約するような憲法改正は認められない。大日本帝国憲法では基本的人権は「法律の認める範囲」でしか認められていなかった。このような制約は現行憲法に違反する。衆参両院で3分の2以上、国民投票で2分の1以上の賛成があっても現行憲法を大日本国憲法に戻すことは認められない。つまり民主や基本的人権などは人や既存の法を超えた普遍的な価値があり、それを何人たりとも否定することは許されないという思想がその背景にある。このような思想を自然法思想という。そして、この思想の下で法の支配は法治主義を超えた意義をもつ。それが、法の支配の反対語が人の支配と言われる所以なのだ。もちろん日本国憲法の理念(民主、基本的人権、平和主義)を守りさえすれば詳細部分は変えることができる。たとえば同性婚問題でしばしば話題になる24条に記載される「両性の合意」という文言は同性婚を否定しているようにも取れるので「当事者の合意」に変更する、環境権を新たな権利として加える、国会議員の任期を変更する、内閣の解散権に制約を加えるなどは96条の手続きに従えば問題なく改正できる。

 だが、法の支配と自然法思想の真実性には疑念がある。自然法は人を超える存在と思念される。だが、先に述べた通り、いかなる法も人が定める。ところが自然法思想では、物理学者が物理法則を発見するように、法学者などが自然法を発見し、それを憲法など法として定めるということになる。しかし発見すべき自然法が自然の中に客観的に存在するという思想は神や仏の実在を認めない限り同意しがたい。現代世界、特に自由民主制国家では宗教の聖典を自然法の根拠としているのではないため、自然法の明確な根拠がない。人々の絶え間ない努力により歴史的に獲得したなどと言ってもそれは単なる事実を(美化して)述べたものに過ぎない。そのような文言だけで人々を説得してもそれは結局は自然法思想を支持する者による人の支配になってしまう。ただその場合、人の支配が単独者または少数者ではなく多数者だというに過ぎない。だが自然法が自然法であるためにはすべての者に対して正しく、誰もが承認できるものでなくてはならない。しかし、そのようなものが人や既存の法を超えて存在すると考える根拠はない。日本国憲法に規定される基本的人権、民主、平和に世界のすべての人が同意している訳ではない。また基本的人権に何が含まれるかは意見が大きく分かれる。29条には財産権が基本的人権の一つとして挙げられているが共産主義者は財産権を原則認めない。憲法には明記されていないが、国民は悪政を行い国民の権利を抑圧する国家に対して選挙など法で認められた手続きでは改善できない場合には法で認められた範囲を超えた過激なストやデモなど物理的な手段を用いて国家に抵抗することが許されると考えられている。これは抵抗権とか革命権などと呼ばれるが、基本的人権の一つに数えることができる。ロックはこの抵抗権に賛成しているが、カントは反対している。このようにたとえ自然法があるとしても世界共通の自然法は発見されていないし、将来それが発見されるとは予測しがたい。物理法則はそれが正しければ自然の諸現象を適切に説明し未来を適切に予測する。だが、法は自然を説明するものではなく、人間社会の在り方や変化を説明するものでもない。法は社会の規範や手続きを定め、それに反する者を罰したり、特定の者や組織に権限を与えたりする基準として存在する。それは発見するものではなく人が定めるものであり人を超えるものではないと考えるべきだ。

 正しい物理法則はあらゆるものに適用できる。人類が誕生する前から物理法則で説明できるような自然現象が存在したと語ることは意味がある。だから物理学者は138億年前にインフレーションとビッグバンで宇宙が誕生したと語ることができる。しかし、人類が誕生する前から自然法が存在したなどと考えることには意味がない。法はそもそも人にしか適用できない。ライオンや白熊の雄はしばしば自分の子どもを産ませるために雌が連れている子どもを殺す。同じことは人間社会では決して容認されない。しかし、ライオンや白熊の雄を法で裁くことはできない。子どもを殺そうとしている雄のライオンや白熊を子どもが可哀そうだと言って人が勝手に銃で撃ち殺すことも適切な行為とは言えない。それぞれの動物にはそれぞれに自然な生き方があり、人の法で是非を判断することはできない。人はライオンや白熊から進化したわけではないが哺乳類という共通点を持ち共通の祖先から進化の過程で分化したと考えられる。もし自然法が存在するとしたら、人という種が誕生したときに並行して人に対してのみ適用可能なものとして誕生したことになる。しかし、そのような思想は理論的にも実証的にも根拠がない。

 自然法は存在せず理念に過ぎない。だからと言って、自然法思想が無意味だということにはならない。これまで人々は試行錯誤しながら、よりよい社会の実現を目指し、時には争い、時には協力しながら、社会を改善する努力をしてきた。その人々の努力を象徴し、また目指すべき未来の道標として自然法という理念があり、それと相関して法の支配の重要性が示される。その意味での自然法であれば法実証主義者も支持するだろう。だが、その一方で、理念に過ぎないがゆえに、自然法も法の支配も脆弱なものに留まることは意識しておく必要がある。憲法改正には限界があると述べた。96条の手続きに則っていればどのような改正でも許される訳ではない。だが、憲法の限界を超えた改正でも、それが成立してしまえば再度改正されるまでは改正憲法が現実的に機能することになる。違憲だとして改正に反対した市民、司法関係者や憲法学者がいくら抗議してもそれだけでは元に戻すことはできない。政治的な論争と国民の説得を経て初めて元の憲法に戻すことが可能となる。だが戻すことに成功する保証はどこにもない。それでも憲法は最高法規であり国民投票による賛同が必要だから簡単には改正できない。しかし、国会で成立すれば有効となる一般的な法は容易に悪い方向に改正されうる。自然法は理念に過ぎず物理法則のような拘束力がないから、それは避けようがない。それを防ぐには、人々が法の支配の重要性を認識し、その背後にある理念としての自然法思想を承認し、それらを支持し堅持することが欠かせない。しかしながら現実の世界を見る限り、その境涯にはまだまだほど遠い。法の支配を強調している国ですら往々にして人の支配が行なわれたり、人の支配を目論む者が国民の支持を集めたりしている。ただ、だからこそ法の支配、自然法思想が重要であるとも言える。


(2025/3/11記)

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