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井出 薫
サイコロを振って1の目が出る確率は6分の1、他の目も6分の1。しかし、これは知識が足りないから正確な予測が出来ないに過ぎず、初期条件をすべて知ることができれば出る目を正確に予測することができる、こういう考えがある。このような考えはすべてが物理法則で一意的に決まるという決定論に基づいている。この考えが正しいとすると、確率とは主観的なものであり、人間の知識不足を表現するものだということになる。18世紀から19世紀に掛けて活躍した数学者・物理学者・天文学者のラプラスは、ある瞬間の宇宙に存在するすべての原子の位置と運動量を知ることができれば未来をすべて完璧に予測することができると論じた。このような存在はラプラスの悪魔と呼ばれ、まさに超越的知性を有する存在となる。因みにラプラスの悪魔は未来を予測するだけではなく過去も完全に再現することができる。古典的な物理学の世界観ではこのような決定論が主流だった。この思想はニュートン力学が森羅万象に通用し、世界はニュートン的時空とそこに存在する(それ以上分割不可能な)原子からなるという二つの前提に基づいていた。確かにこの二つの前提に立つと、ラプラスの悪魔は原理的には存在しうる。もちろん、宇宙のすべての原子の位置と運動量を知ることは人間には不可能で、またコンピュータのメモリ容量が無限大でない限りすべてを知ることができても未来を正確に予測することはできない、また過去を正確に再現することもできない。メモリ容量が有限であるため計算の過程で生じる誤差をゼロにできないからだ。 しかし、このような主観的確率論は量子論の登場で覆された。量子論では物理的状態は一般的に複数の量子状態の重ね合わせで表現され、どの状態にあるかは観測するまで決まらない。ただ観測の結果が確率的に予測されるだけだ。たとえば電子にはスピンという物理量があるが、スピンは運動方向と同じ方向を向く場合と逆向きの場合の二つがあり、一般的な状態は両者の重ね合わせで表現される。そして観測するとどちらか一方であることが確定するが、観測するまでは確率的にしか予測できない。これは主観的に予測できない(=知識が足りなくて予測できない)のではなく、原理的に予測できない。つまり量子論においては確率は主観的なものではなく客観的なものとなる。量子論は一般的にミクロの領域でその特徴が現れ、私たちの周囲の世界つまりマクロの世界ではその特徴は隠されている。だが量子論の創設者の一人、シュレディンガーが提唱した思考実験(「シュレディンガーの猫」と呼ばれる)で、マクロの世界にも量子論の確率的性格が現れることが示されている。「シュレディンガーの猫」では、猫は箱の中に閉じ込められている。箱の中には放射性物質とそれが崩壊したときに発生する放射線の検出装置が備えられている。放射線が検出されると装置が作動して自動的に猛毒ガスが箱の中に放出されるようにセットされている。古典力学の世界では放射性物質が1時間以内に崩壊する確率は1か0かに決まる。つまり1時間後に猫が箱の中で生きているか死んでいるかは予め決まっている。しかし、ミクロの世界を支配する量子論では一般に確率は0か1の間の数値を取る。放射性物質の量を調整すれば確率2分の1で崩壊するような状態を作ることができる。さて、その場合、1時間後、猫は生きているか死んでいるか、確率はそれぞれ2分の1になる。つまり猫の生死は完全に不確実になる。それは人間だけが結果を知りえないのではなく、ラプラスの悪魔ですら知りえない。この事例はときたま猫が選ばれているが、人間であっても他の動物であっても結果は変わらない。私たちは知らないうちにシュレディンガーの猫のような状況に置かれている可能性がある。たとえば、人物Aが山奥の洞穴に入る。その洞穴は内部に存在する放射性物質が崩壊すると穴が崩落する状態にあった。そして、量子論によるとAが入ってから1時間後に崩壊する確率は2分の1と計算されるとしよう。Aは1時間後に出てくる予定だったとして、Aが1時間後に無事洞穴から生還するか、生き埋めになるかは確率2分の1でしか決まらない。つまり、ミクロの領域だけではなくマクロの領域でもミクロとマクロの繋がりを通して確率は主観的なものではなく客観的なものとなる。 さらに、古典力学の範囲でもカオス現象など実質的に未来を正確には予測できない現象が少なくない。むしろ、その方が一般的だと言える。量子効果を無視できるとしても、ラプラスの悪魔でも巨大地震がいつ起きるか正確に予測することはできない。人間には決して検出できないようなほんの少しの誤差でも計算結果が大きく変わることがありえるからだ。また、量子論の登場を待つことなく、熱力学と古典的統計力学ですでに確率が客観的なものであることが示されていたとも言える。なぜなら両者により世界は確率が低い状態から高い状態に必然的かつ客観的に移行することが示されるからだ。 このように確率は私たちの知識不足から現れる主観的なものではない。世界は確率的にしか決まっていない。ただし、確率的であるということは物理法則が普遍的なものではない、客観的なものではないということを意味するのではない。正しい物理法則は宇宙のあらゆる場所で、あらゆる時間で成立すると考えられている。そのように考えることで私たちは宇宙の多くの謎を解明することができた。(ただし物理法則の普遍性を証明することはできず永遠の仮説にすぎないことには留意する必要がある。)また、世界が確率的であることを根拠に、「決定論は否定された。自由意思は存在する」と主張することはできない。二つの状態が実現する確率がそれぞれ2分の1であるということは、人間が自由意思で結果を確定することができることを意味しない。結果は純粋に偶然の産物であり人間の意思には左右されない。たとえばシュレディンガーの猫の生死を人間の意思で選択し確定することはできない。人間にできることは結果を受容することでしかない。 さらに世界が確率的であるということは、偶然と必然という概念に反省を迫ることになる。両者はしばしば対極的な概念とされるが、現実の世界はそうなっていない。世界は確率的に決まっているということ、その確率を決める量子論という物理学理論が確立されていることは世界の必然性を示す。そもそも「確率x分のy」と言えるのは必然性があるからだ。必然性がなければ、そもそも確率を語ることもできない。なぜなら全くでたらめな世界では確率という概念が成り立たないからだ。一方で、確率的であることは未来が一意的には決まらないことを意味し、そこには世界の偶然性が示される。世界は必然であり偶然でもある。必然と偶然という概念には曖昧さがあり、状況によって使い分けする必要がある。ただし、この状況をヘーゲルの弁証法のように「偶然を通じて必然が貫く」というような型に嵌った言説で解決しようとしても成功しない。偶然と必然を対立概念として使用することが適切な場合(司法など)もあるから、ヘーゲルのように必然と偶然を止揚する訳には行かない。また、必然を決定論、偶然を非決定論と単純に結びつけることはできない。それゆえ確率の客観性は、決定論/非決定論という図式にも反省を要請する。さらに、決定論は因果律の普遍性を肯定し、非決定論は因果律の普遍性を否定すると言われることがあるが、このような考え方も見直す必要がある。そして、これらのことは、私たちの認識と実践が対象とは解消できない差異を有するモデル・道具の生成と使用であることを強く示唆する。 了
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