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井出 薫
中国のディープシーク社が米国のOpenAI社に匹敵するAIを少ない費用で開発したと報じられ衝撃を与えている。このことはまだまだAI研究が発展途上にあることを示している。 今の生成AIには三つの弱点がある。一つは学習に膨大なデータが必要であることだ。将棋や囲碁では名人でもAIには勝てない。だがAIの強さは計算の正確さと学習量の多さによっている。学習量が同じならば人間の方が強い。言語習得も同じで、個人が生まれてからこれまで聞く、話す、読む、書くで使った言葉の量と生成AIが学習した言葉の量を比べると後者の方が遥かに多い。その分、知識はAIの方が豊富だが、微妙なニュアンスや洞察力では未だ人間には及ばない。学生の課題レポート程度ならば生成AIで合格点が取れるだろうが、独創性の高い論文を生み出すことはできない。 次に過学習の問題がある。学習量を増やすことでAIは賢くなる。だが、学習量が増えすぎると不適切な回答をするようになる。n変数の連立方程式はnより少ない独立な方程式では答えが一つに決まらない。逆にnより多いと答えがなくなる。ちょうどn個の独立した方程式がある時に答えが定まる。それに似た事情があるのかもしれない。だが、理由は定かではないが人間の場合はそういうことは起きない。専門バカなどと揶揄される者は少なくないが、それは過学習ではなく自信過剰やパーソナリティの問題だろう。 さらに、ディープラーニングのようなニューラルネットワークベースのAI技術が優れた性能を発揮する理由が分かっていない。現時点では「上手くいく理由は分からないが、現実的に上手くいっている」としか言えない。半世紀以上前からニューラルネットワークがAIとして有望であるとは言われていた。なぜなら人間がニューロンのネットワークを使って様々な知的能力を発揮しているからだ。それを模倣することで人間並みあるいは人間を凌ぐAIを作ることができると期待するのは自然だろう。しかし、それにも関わらず「なぜ上手くいくのか」という問いに今のところ確かな答えはない。それが先の二つの問題を解決できない理由にもなっている。 そもそもの問題は人間の知能が十分に解明されていないことにある。生後間もない乳幼児は言葉を話すことも、理解することもできない。だが成長と共に簡単な単語や文を覚えて使えるようになる。さらに字を覚え読み書きができるようになる。チョムスキーはそれは人間には生得的に脳内に普遍文法のメカニズムが備わっているからだと考えた。だが、チョムスキーは具体的に脳のどの部分にどのような構造と機序で普遍文法が装備され、それが成長に伴いどのように進歩していくのか説明していない。チョムスキーの説は有力ではあるが現時点では仮説にすぎない。また普遍文法を否定する論者も少なくない。将棋や囲碁でも少ない学習量で人間は強くなる。しかし将棋や囲碁を少ない学習量で習得するための普遍的な機能が生得的に脳に宿っているとは考え難い。将棋や囲碁を指すことは生きるために必須の技能ではないからだ。実際、将棋も囲碁もルールすら知らないという者は少なくない。だが、そういう者が生活に困ることはない。それゆえ筆者もチョムスキーの理論には疑問を感じている。 本稿で取り上げた3つの課題を解決するには、脳の機能の解明が欠かせない。人間の脳が分からずとも人間を凌ぐAIを作れる可能性はある。しかし人間が期待するAIは人間と適切なコミュニケーションができるAIだ。それゆえ、たとえニューロネットワークとは異なるAIアーキテクチャーを使用する場合でも人間の脳を解明することが極めて重要だと思われる。また同時に脳の解明にAI研究が貢献するところも大きい。人間の脳を純粋に理論的な観点で研究し解明することには限界がある。脳や脳を支える身体の機構は余りにも複雑で現実を反映した正確な数理学的なモデルを構築することは困難で、モデルを構築できたとしても解析的な厳密解を得ることは不可能だからだ。それゆえ実験研究が欠かせないが技術的並びに倫理的な問題が大きく、できることは限られる。それゆえ、脳の解明には、AIと人間の知能との比較対照、AIによるシミュレーションやエミュレーションなどが欠かせない道具となる。 今後ともAI研究と脳研究が手を携えて研究を進めることでAIは進化し、同時に脳の謎の解明が進む。ただし脳研究もAI研究も倫理的な配慮が欠かせない。どんなに科学や技術が進歩しても人間は機械にはならないし、機械も人間にはならない。また、なるべきでもない。それゆえ、できることは何でもやってよいということではない。たとえば見た目も振る舞いも完全に人間と同等のアンドロイドを作ることが技術的に可能になったとしても、それを実際に製造することが許容されるか否かという問題は独立した倫理的問題として社会の中で議論する必要がある。 了
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