井出 薫
社会科学の重要性は自然科学に劣らない。しかし社会科学は自然科学のような客観性と確実性がなく信頼度が低いと言われることがある。そしてそれはある程度事実だと言わなくてはならない。 社会科学は学説の妥当性を検証することが難しい。マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、資本主義発展の初期段階でプロテスタンティズムの倫理が資本蓄積に大きく貢献したと主張する。その根拠としてウェーバーはプロテスタントが広がった地域と資本主義が発展した地域が合致していることを挙げる。だがウェーバーの証拠は大雑把で定性的なものであり、統計検定に合格するような精度がない。また両者に相関関係があるとしても、プロテスタンティズムの倫理が原因なのか結果なのかは分からない。両者とも第三の因子が原因で、結果的に相関が生じているに過ぎない可能性もある。また、資本主義の発展に関連すると推測される因子は、地理的条件(内陸国、海洋国、その他)、人口・人口密度・人口増加率、民族構成、社会の階層構造、国内外の政治状況、教育水準・教育環境、資源や土地の肥沃度、気候など多数存在する。他の要因に比べてプロテスタンティズムの倫理の影響が大きいことを立証するには、これらの関連項目の影響を定量的に調査し統計学的にその影響が最も大きいことを示す必要がある。しかしウェーバーにはそのようなデータがない。また、現実問題として、そのようなデータを収集することは不可能だ。ウェーバーは、因果関係を論じるに当たって、カルバァン主義の予定説に着目した。人は天国に行くか地獄に行くか生まれたときから決まっている、しかし本人には分からない。この不安を払拭するためにプロテスタントは勤勉と現世での成功を救済の印と考え、資本主義の興隆に相応しい職業倫理を確立した。それが資本蓄積に繋がったとウェーバーは論じる。だが、この解釈はフロイトの夢判断と同じで恣意的なものでしかない。プロテスタントが資本主義発展に貢献したのが事実だとしても、予定説に対する不安ではなく、カトリック教会など既存の権威を否定することで生まれた進取の精神が資本主義の発展を促したという解釈も成り立つ。神と直接向かい合うというプロテスタントの信仰の在り方が個人主義を育み競争を促し資本蓄積に繋がったと解釈することもできる。ウェーバーの主張は恣意的な解釈に過ぎず検証することはできない。また、そのことが、相関関係があったとしてもそこに因果関係があることを導けない理由になっている。 だが、これはウェーバーだけの問題ではない。同じ指摘は、マルクス主義者の唯物史観、デュルケームの自殺論、マルサスの人口論など、社会科学の諸学説に当て嵌まる。このような社会科学の難点を生み出す要因は幾つかある。まず学説の追試ができない。社会科学の場合、調査はできるが一般的な帰結を引き出せるような大規模な実験ができない(注)。そのため高い精度で学説の評価を行うことが難しい。ほとんど同じ状況が歴史的に繰り返し現れる、あるいは同時多発的に世界各地で発生するなどのことがあれば、それらを調査することで、この難点をある程度克服できる。しかし現実には同じことは二度と起きない。インフレは世界的な事象で繰り返し起きているが、その詳細は国や地域により異なり、時代により発生原因や影響範囲、経過などが異なる。ウェーバーが見ていた社会、マルクスが見ていた社会は今はどこにもないし、過去にもない。また必要なデータを揃えることができないからシミュレーションで現象を再現することもできない。なぜ明智光秀は本能寺の変を起こしたのか、もはやその謎を解くことは不可能で、あれこれ想像することしかできない。このことは社会現象の一回性による困難と言ってよい。この一回性により学説の追試が事実上不可能となる。 (注)革命や法改正、経済政策などを実験の一種と見なすことができなくはないが、結果の再現性を確認する手段がない。また、社会現象には様々な要因が絡み合っているから、革命や法改正、経済政策により生じた事象から、それらの政治的活動の基盤となった学説の妥当性を検証することもできない。社会心理学では小規模な実験がしばしば行われるが、その結果を一般化することはできない。実験室という日常とは大きく異なる隔離された環境で、しかも限られた人数での実験結果を一般化することはできないし、危険でもある。たとえば人間の権威主義的かつ残酷な性格を明らかにしたとされるミルグラム実験の結果を安易に一般化するべきではない。そのような試みは人間の本質を歪めて捉えることになる。そもそもミルグラムの実験結果そのものの妥当性にも疑問がもたれている。 また統計学的な手法が有効になる高精度な客観的かつ定量的なデータを大量に収集することは極めて難しい。経済学では統計学的手法が広く用いられているが、データの多くがアンケート調査結果のような主観性が高いものを含んでおり、自然現象に関するデータのような客観性が保証されない。自然科学と同種の数理学的手法やモデルが多用される経済学ですらそうなのだから、他の社会科学分野ではその傾向はなおさら強い。さらに、自然科学とは異なり、社会科学では人々の気質、知識、体験、信念、思惑、感情、感覚、周囲の意見や行動の影響などが研究を遂行するうえで無視できない重要な因子となる。しかも、それらの因子の内容は絶え間なく変化している。そのために研究の客観性を保つことが極めて難しい。このことは、社会科学が心を持つ人間と、その人間の集合体としての社会−その中で人々は多様な相互作用を行い、相互関係を構築する−を扱うことから必然的に発生する(自然科学にはない)困難と言ってよい。 さらに、社会科学の難しさの原因として挙げられるのが、社会科学的な説明が自然科学のそれとは根本的に異なる性質を持つことだ。自然科学では、起電力と電流、化学反応、気候変動の生態系への影響など、時間的連鎖を伴う因果連関とその土台となる理論で諸現象を説明する。それに対して社会科学では、自然科学的な因果連関ではなく、動機、目的、意図など原因というより理由と呼ぶことが相応しい概念を使って説明する。正義・不正義、公平・不公平、善・悪、幸福・不幸など自然科学では存在しえない概念を使う場合も多い。法学などはその典型と言えよう。動機は形式的には行為の(因果連関の)原因とみなすことができるが、動機は本人も意識していないことが多く、後から認定されることが多い。動機、目的などは便宜的なものでしかないとも言える。刑事罰を課すことができる要件として意図的、違法性の認識、不可抗力でないことが挙げられるが、(確率統計的なものを含めて)決定論的な構図を有する自然科学では不可抗力はありえない。また、意図、違法性の認識などは脳神経系の一定の状態や過程と対応させることができるように思えるかもしれないが、意図的または違法性を認識していたと評価される行為をしたときに共通する脳神経系の状態や過程が存在する証拠はない。むしろ意図や認識という概念は行為全体を評価するときに便宜的に付与されるもので、曖昧さや恣意性が付き纏うことは避けられない。つまり、ここでは自然科学的な客観性は存在しない。このことは、社会科学で用いられる概念群は、その性質が自然科学で用いられるそれとは本質的に異なることを示す。社会科学で使用する概念は原理的に曖昧さ、恣意性、便宜性を有するため、普遍性や再現性を保証し様々な未知の領域で汎用的に活用できる数理学的・論理学的体系を構築することはできない。あるいは、こういう言い方ができるかもしれない。「自然科学のモデル・道具は客観的に検証されるべきものであり、社会科学のモデル・道具は人々の合意を得るべきものである」と。 社会現象の一回性、心を持つ人間とその人間の集団が織り成す社会、自然科学とは異質な概念群の使用、これらのことから、社会科学には自然科学的な客観性や普遍性を期待することはできない。だが、このことは社会科学が自然科学より劣るとか、役立たないなどということを少しも意味しない。自然科学や産業を発展させ生活を快適にした技術は確かに強力で現代文明を支えている。だが、それだけでは社会はよくならないし、人々は幸福にはならない。自然科学と自然科学の応用という意味の狭義の技術は、短期間で世界を一周することを可能とし、衛星や海底ケーブルで世界の人々と瞬時に情報交換することを可能とする。放置しては絶対に治らない病気を治せることも少なくない。だが、その一方で、核兵器など大量殺人・大量破壊兵器を生み出し、自然環境を破壊し、人々の精神を蝕む。社会科学や哲学、芸術、信仰、文化が自然科学や狭義の技術と共存し互いに補完しあうとき初めて良い社会が実現し、全ての人々が幸福で充実した人生を送ることができる。 自然科学も社会科学もモデル・道具であることに変わりはない。だが、それがかかわる対象が異質であることから、モデル・道具の性格も異質なものとなる。勿論、自然科学内部でも、社会科学内部でも分野ごとに対象とモデル・道具は異なる。だが、自然科学と社会科学という大きな括りで論じるときにはその差異は決定的なものとなる。それゆえ、社会科学には自然科学とは異なる方法とモデル・道具、そしてその適切な評価法が必要となる。社会科学においても、これまで様々な試みがなされてきた。ウェーバーは理念型を提唱し、マルクスは抽象から具体という上向法を提唱した。だが、二人とも、それを具体的、現実的対象に如何に適用するのか、留意すべき点は何か、限界はどこにあるのか、こういった問いに答えていない。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や『資本論』がその答えだと言う者がいるかもしれないが、彼らの方法論が具体的にどのように活用されているのか定かではない。評価法を含めて適切な研究方法を確立して学的体系を構築することは自然科学と比較して社会科学の方が遥かに難しい。社会科学では理論や学説の適用可能領域も限られている。だが、自然科学と狭義の技術の産物が、平和と地球生態系を危機に陥れている現代、社会科学の重要性は増すことはあっても減ることはない。研究の進展を期待したい。 (補足) ビッグバンによる宇宙膨張や巨大隕石衝突による恐竜絶滅など宇宙や地球の歴史に関する事象にも一回性があり再現実験もできない。しかし、これらの自然現象では、土台として十分に検証された信憑性が高い汎用的な理論が存在し、かつ間接的ではあるが確かな証拠、たとえば絶対温度3度の宇宙背景輻射、恐竜絶滅期の地層に存在する大量なイリジウムなどが存在する。それらにより、精度の高いシミュレーションが可能となり、それを観測や観察データと照合し評価することができる。またシミュレーションの結果から帰結する新事実を観測や観察により検証することができる。そのため、社会科学のように、一回性や実験不可能性が信頼できる客観的で普遍的なモデル・道具を構築することの妨げになることは少ない。要するに、自然科学では客観的で普遍的な信頼性の高い理論が存在し、証拠も定量的で客観的なものが得られるということに、社会科学との差がある。 了
|