☆ 自然科学は絶対ではない ☆

井出 薫

 ヒッグス粒子や重力波の発見は大きな話題となりノーベル物理学賞に繋がった。

 ヒッグス粒子や重力波は、昆虫や遺跡のようにそれ自体を直接捉えることはできない。「ヒッグス粒子が存在すれば、この装置でこのようなデータが得られる」、「重力波が存在すれば、この装置でこのようなデータが得られる」という理論的予測があり、予測通りのデータが得られたことを以てヒッグス粒子と重力波の存在が立証されたと論じられている。

 しかし、ここには二つの疑問がある。「AならばB」が真であっても、「BならばA」は真とは限らない。「Xが人間ならば、Xは動物である」は真だが、「Xが動物ならば、Xは人間である」は真とは限らない。Xは猫、犬など他の動物である可能性がある。ヒッグス粒子や重力波と判定されたものが、別のものだったという可能性は残る。

 もう一つの疑問は「Xが存在すれば、・・このようなデータが得られる」という理論的命題の正しさはどうやって保証されるのかということだ。ヒッグス粒子の場合は場の量子理論と装置の動作に関する諸理論、重力波については一般相対論と装置の動作に関する諸理論が正しいことが前提となっている。では、これらの理論の正しさは何が保証しているのだろう。過去の実験と観測のデータがその正しさを証明していると言われる。正しい物理法則は時空を超えた普遍的な真理だとされる。だから、過去に正しいと証明された理論は今も正しいと言われる。だが、宇宙のすべての事象でこれらの理論の正しさが証明されているわけではない。人間が得られるデータなど森羅万象のごく一部、限りなくゼロに近いごく僅かなものに過ぎない。しかも未来のことは誰にも分からない。突然、物理法則が変化する、物理法則が存在しなくなるという可能性はゼロではない。そして、この状況は研究がどれだけ進んでも変わることはない。それゆえ厳密に言えば場の量子論や一般相対論が普遍的に正しいという保証はなく、現時点で反証するデータが得られておらず、他により良い理論が見つかっていないというに過ぎない。どれほど信頼性が高い物理理論でも一時的・限定的な真理でしかない可能性はある。

 物理学を否定するつもりは全くない。しかし、有限の存在である人間には普遍的な真理が世界の存在し、それを表現する理論が存在するとしても、理論の正しさを完璧に証明することはできない。物理学は自然科学の中で最も普遍的で信頼度の高い学で、他の諸分野は物理学の正しさを前提として理論を展開する。それゆえ、自然科学の普遍的妥当性は永遠に証明されることはなく信念の域に留まる。ただ、その信念に基づく諸研究は多くの実りある成果を生み出しており、それなしには現代文明は成り立たない。それゆえ自然科学が人々から高い信頼を得ていることは納得できる。

 人間の認識と実践はモデル・道具の生成と活用であり、モデル・道具は対象そのものとは解消できない差異を持つ。自然科学でもそれに変わりはない。そこには人間の限界が反映されている。人間は有限であるがゆえに、森羅万象を知り尽くすことはできず、人間の認識と実践はそのごく一部、ゼロに等しいものに留まる。だからこそ、それは対象とは解消できない差異を持つモデル・道具を介したものになるしかない。そこから必然的に自然科学と言えど絶対ではないことが帰結する。


(2024/11/12記)

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