☆ 哲学と個別科学 ☆

井出 薫

 哲学と個別科学の違いは外部性の有無だといえよう。

 物理学には物理現象という外部がある。物理学というモデル・道具は物理現象を適切に説明、予測をすることができる。ただしそれはあくまでもモデル・道具であり物理現象そのものではない。生物学には生物現象、経済学には経済現象など、それぞれ外部が存在する。数学は数や図形、時間や空間、そして個別科学で用いられる様々な方法などを外部として持つ。ただ物理学や経済学ではモデル・道具とその対象そのものとの差異は明確だが、数学の場合はモデル・道具と対象を明確に分けることができない場合がある。それでも、数学の研究では数学者たちは理論そのものは極めて抽象的だとしても、図形や数、空間などを通じて具体的な思考実験をすることでモデル・道具を構築していく。そして、そこには抽象的な学と現実的な対象との間の差異が存在し、数学の外部の存在が明らかになる。

 一方、哲学は言葉の世界の中だけで動いていく。記号論理学などを援用しても、その思索は常に言葉から離れることはできない。「存在とは何か」これが哲学の第一問題だとハイデガーは言う。だが、「存在」はとりあえず言葉でしかない。ハイデガーはこの隘路を何とか脱却しようとするが上手くいかない。当初予定されていた『存在と時間』第二部は日の目を見ることはなかった。そして、晩年のハイデガーは、言葉は存在の住処であるとして言葉の至高性を認める。だが、そのことは結果的に哲学が言葉という枠組みの中でしか動けず外部を持たないことを示唆する。そのため哲学的な思索は一般的に循環論法に陥る。

 しかし、哲学もまたモデル・道具であり、対象たる外部が存在するはずで、その対象と解消できない差異があるはずだということにならないだろうか。哲学するとき哲学者は哲学的テキストなど何らかの外部を思索の対象として選定する。そして、それとの関わりにおいて新たなモデル・道具を作り出す。だが、哲学においては哲学的なモデル・道具そのものがモデル・道具の対象となっている。つまり言葉で言葉を語るという自己言及的構造になっている。そのために他の諸学のような外部が存在しない。数学にも似た面があるが、先にも述べた通り、数学の対象には数学そのものだけではなく、現実的な数、図形、そして諸学のモデル・道具という数学的モデル・道具には還元できない対象が存在する。だからそれらが外部となる。

 外部があるからこそ、個別科学は論争に決着をつけることができる。もちろん現実には論拠となるデータが十分に得られず決着が付かない場合は少なくない。だが原理的には決着を見ることができる。しかし、哲学のモデル・道具は哲学のモデル・道具が対象となっているために外部を見出すことができず論争に決着をつけることができない。そのことが、たとえばデリダの脱構築に示されている。外部がないがゆえに、その思索を意味あるものにするには、同語反復を排し絶え間なく論点をずらしていく、つまり脱構築の運動を継続する必要がある。また哲学をそのような脱構築の場として構想する必要がある。ヘーゲルは唯一無二の一者という壮大な形而上学を土台とすることで弁証法を通じて同一性哲学を完成させた。だがヘーゲルの哲学は、社会の諸問題に対する指摘や警鐘には卓越したものがあるものの、体系そのものは空疎で現代においては過去の遺物に過ぎない。だから残された道は脱構築しかない。だが、脱構築も結局のところ言葉の引力圏から抜け出すことはできず、いくら脱構築、二項対立の解体などと論じたところで、ヘーゲル的な壮大だが空疎な形而上学的体系へと回収される運命にある。デリダの脱構築とヘーゲルの弁証法の違いがさっぱり分からないと指摘する者がいるが、無理もない。確かに両者はその意図と戦略においては違う。だが批判者が指摘するとおり結局は同じことになる。なぜなら、どちらも言葉の引力圏の内にあるからだ。

 それは哲学が無意義だということを意味しているのだろうか。ウィトゲンシュタインはそう考える。一方、ローティは会話を継続することに哲学の意義があると言う。哲学はここで論じているように言葉の引力圏から抜け出すことができず、常に堂々巡りをする宿命にある。だが、その堂々巡りがしばしば興味深いものとなるし、哲学から抜け出し、個別科学や日常的あるいは社会的に役立つ思想となることもある。たとえば倫理的な考察が典型例だといえよう。哲学的な倫理学は抽象的でそれ自体では自分で自分を語るという循環論法に終わる。だが、哲学的議論の中で具体的な事件や事案に触れることで、新しい視点が発見されることがある。哲学そのものは不毛だとしても、哲学的な思索と議論を継続することで、他の分野に有益な手掛かりを与えることができる。それゆえ、会話を継続することに意義を求めるローティの主張は傾聴に値する。事実、デリダの脱構築、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム、ハイデガーの存在へと問いなどは、まさしく、限りなく会話を続けることに貢献する。哲学そのものは外部を欠くが、哲学することで、新たな外部を見出す手掛かりが得られることがある。そこに哲学の意義があり、個別科学が大いに進歩した現代においても哲学に関心を持つ者が後を絶たない理由が示されている。


(2024/9/27記)

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