☆ 自己言及性 ☆

井出 薫

 「この文は偽である」これは真か偽か。どちらだとしても矛盾が生じる。真だとすると、この文は偽になるから矛盾する。偽だとすると、この文は真になるからやはり矛盾する。いずれにしろ矛盾し、この文は真偽を問えない。このようなパラドックスは哲学では頻繁に出現する。

 相対主義のパラドックスも同じ性質を持つ。「絶対的な真理は存在しない」これが相対主義者の主張だが、この言明には矛盾がある。この言明が絶対的な真理ならば、この言明自体が絶対的な真理の事例となり相対主義と矛盾する。この言明が偽ならば、少なくとも一つは絶対的な真理が存在することになるから、やはり相対主義と矛盾する。これが哲学でよく引用される相対主義批判だ。

 いずれの例でも、文や言明そのもの(自分自身)について真偽を問うている。つまり自己言及的な構造が存在する。そしてそのことで矛盾が発生している。実際のところは、最初の事例では、「この文」は通常自分自身ではなく別の文を指示する。相対主義は「学説や理論のほとんどすべては絶対的なものではなく、誤りの可能性がある」と言っている場合が多く絶対的な真理として相対主義を主張しているわけではない。また、「私の言っていることこそ唯一無二の真理だ、唯一無二の正義だ」などと独断的な主張をする者に反省を促すために相対主義的な主張をすることもある。これらの場合、文や言明そのものの真偽は問題とされていない。要するに無理やり真偽を問うから自己言及的な構造となり矛盾が生じる。

 では、自己言及的な構造を回避すればよいのだろうか。上の例ではそのとおりだ。しかし、数学やコンピュータサイエンスでは再帰的な定義が良く用いられる。たとえば関数fの定義としてfの変数にf自身が含まれることはよくある。
 f(n)=f(n−1)+3
などは最も簡単な例で、もっと複雑な再帰的な関数が無数にある。これこそまさに自己言及性の典型と言える。しかし、このような自己言及性を悉く回避しようとするとコンピュータプログラムを書くことは不可能になる。

 それゆえ自己言及性を、矛盾を孕む恐れがあるからと言って排除する訳にはいかない。コンピュータプログラムのようにそれが有益で意味ある答えを与える場合が無数にあるからだ。それゆえ矛盾が生じないような範囲に自己言及性を限定する必要がある。

 この問題に真摯に取り組んだのが、ラッセルなど分析哲学の潮流に属する哲学者と数学基礎論を展開する数学者だった。19世紀には非ユークリッド幾何学、群・環・体などの現代的な代数学、数理論理学など様々な数学分野で革命が発生し数学の基礎について再検討が必要であることを明らかにした。その中の一つがカントールに始まる無限集合論で、無限を操作的な無限と捉えるそれまでの常識を覆して無限を実無限として捉える道を切り開いた。だが、カントールの無限集合論には大きな問題があった。それは自己言及的な矛盾を孕んでいるということだった。そこからラッセルたちは自己言及性の制限を行い、有益な自己言及性だけを残すように試みた。この試みは紆余曲折を経て公理的集合論などに結実し現代数学の重要な基盤となっている。またコンピュータサイエンスや情報科学でも重要な役割を果たしている。だが、それでも自己言及性の問題が解消されたとは言えない。自己言及性の問題は哲学、数学や論理学に限ったことではないからだ。

 たとえば憲法を考えてみよう。現行の日本国憲法は憲法の条文(97条から99条)で最高法規と規定されている。だが最高法規であることを保証するものは何なのだろう。捉えようのない自然法を持ち出さない限り、憲法そのものが憲法の最高法規性を保証しているとしか言いようがない。まさにこれは自己言及的だと言わなくてはならない。これに対して、だからこそ憲法に先行する自然法の存在を是認するしかないと論じる者もいるが、自然法が具体的に何であるか明らかにした者はいない。自然法思想は時代や地域を超えて存在するが、各時代と地域の論者が語る自然法は互いに異なっており一致していない。同性愛は罪だとされた時代もあるが、今では欧米諸国など多くの国で完全に正当なものとして認められ法制化もされている。日本でも同性婚は認められていないが、同性愛者の権利を認める様々な法制化が進められている。このことからも明らかなとおり、普遍的な自然法という思想は現実的なものとは言えない。20世紀の偉大な法哲学者ケルゼンやハートは法実証主義を提唱し自然法を事実上否定している。それゆえ、憲法の最高法規性は自然法に依拠することはできず、憲法そのもので保証されると論じるしかない。そして、このことは憲法改正の限界に関する議論に繋がる。たとえば基本的人権を毀損するような憲法改正は改正の手続きを定めた96条の手順に従ったとしても容認されないというのが憲法学者の定説となっている。つまり憲法改正には限界があり憲法の原則を覆すような改正は手続き的に妥当だとしても認められないということだ。だがそれは自己言及的な憲法の最高法規性を前提にした議論と言わなくてはならない。最高法規なのだから何人もその理念に反することはできないという訳だ。しかし現実問題としては、96条の手続きに従い改正されたら、憲法学者がいくら違憲だと主張しても、新しい憲法が憲法として機能することになる。ここには自己言及性の限界が現れている。つまり自分(憲法)で自分(憲法)の正当性を保証することは現実的にはできない。

 このように自己言及性の問題は哲学と数学だけではなく様々な分野で現れる。正義や倫理、政治体制などに関する議論にはたいてい自己言及的な主張が含まれる。たとえば「民主制が最高の政治体制だ」「理由は?」「最も多くの者の意見が政治に反映されるからだ」こういう議論をする者がいる。だが最も多くの者の意見が政治に反映される政治体制が民主制なのでこれは自己言及的な議論と言わなくてはならない。民主制の優位性を示すにはより多くの者の意見が反映されることが最良であることを証明する必要があるが、それは難しく、そこでまた自己言及的な議論が生まれる。

 このように自己言及性は様々な分野で現れる。それは人間が言葉を使って考え、議論し、合意を得て、計画を立案・実行するという存在だからだ。言葉は言葉でしか語ることができない。言葉には本質的に自己言及的な性格がある。自己言及性は言葉の使用で共同生活を営む人間とその社会の不可避の現実なのだ。それゆえ、私たちは常に自己言及性に注意し、その意義と限界を考える必要がある。


(2024/9/12記)

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