☆ 情報とは ☆

井出 薫

 「情報」という言葉は様々な使われ方をする。数理科学やコンピュータサイエンスでは、情報は有限個の記号からなる記号列とその処理の仕方を定義したものを意味する。チューリングマシンで処理できるもの全てを情報と定義すると言い換えることもできる。数字や言語だけではなく画像や動画、音声、臭気、味、体感なども情報となるが、コンピュータではデジタル化して処理される。古典コンピュータでは情報の基礎単位は0と1からなるビットで、量子コンピュータでは0と1の重ね合わせであるQビットであるが、古典コンピュータも量子コンピュータも理論的にはチューリングマシンであることに変わりはない。古典論の世界であろうと量子論の世界であろうとすべての情報はデジタルでありチューリングマシンで処理できる。

 一方、日常生活、社会経済活動、政治的・法的論争、人文社会科学や芸術の分野では、情報は何らかの意味を担い人々の活動に影響を与える存在として扱われる。通常、情報は人間が関わる事象に関連して生じるものとされるが、人間以外の生物についても合目的的な活動に関与する信号等を情報と表現することがある。たとえば鳥や小動物が天敵の襲来を鳴き声で仲間に知らせることを「情報を伝える」と表現する。鳴き声は「敵が来た、逃げろ」という意味を担う。

 情報の発生源は通常人間で、発信者が生成、送信、伝達し、受信者が受信し理解して適当な行動や思考を遂行する。ただし、情報の発生源は人間とは限らない。普段大人しい犬が激しく吠えると人々は不審者やクマなどが侵入したことを察知する。盲導犬は視覚障碍者に様々な情報を与えて適切な行動を促す。無生物でも、立ち込める雲が雨が間近いことを知らせるように情報源となる。動物に特定の行動を指示することがあるから情報の受け手は人間に限らない。いずれにしろ、情報とは複数の存在者の間で伝達されることで初めて情報となる。歯痛に襲われたが誰にも伝えず我慢し、その内に自然に治り忘れてしまえば、そこには情報は存在しない。

 情報には理解が容易なものと難しいものがある。親しい者と母国語で世間話をしているとき相手の言葉を理解することは容易い。しかし、見知らぬ外国人から知らない外国語で話し掛けられると意味を理解するのに手間取る。宇宙全域に広がる絶対温度3度の背景輻射からビッグバン宇宙論の証拠を読み取ることができる者は宇宙物理学や素粒子物理学の専門家に限られる。

 このように情報には様々な特質があるが、情報を哲学的に考察するとき先ず問題となるのが、最初に論じた二つの情報、数理科学的なデジタルな情報と社会活動等で扱われる意味を担う情報との間の関係だ。

 両者を同一あるいは後者は前者に還元可能と考えると、人間の個人的及び社会的諸活動(思考も含む)は原理的にすべてコンピュータでシミュレーションできることになる。たとえばAIは知的活動のシミュレーションと言える。この点については現時点では統一的な答えはない。多くのAI研究者やシンギュラリティ論者は同一あるいは還元可能と考えている。しかし、人間もコンピュータも物質で出来ているから同じはずだという以外、確たる根拠がある訳ではない。どちらも物質だとしても半導体や金属など無機物で構成されるAIやロボットと生体高分子の集合体である人間が同じとは言えない。脳神経系と電子回路は等価だと言う者がいるが、類似性はあっても同じとは言えない。とは言え、AIやロボットは日々進歩しており、両者の同一性あるいは還元可能性が証明される日が(遠い将来だとしても)来る可能性はある。一方、両者の同一性あるいは還元可能性に疑問を持つ者も少なくない。ハイデガーは現代の特徴は世界を数理科学的な存在として捉えている点にあると指摘する。そして哲学はサイバネティクスに取って代わられたと論じている(嘆いている?)。ハイデガーの指摘は、現代人が暗黙裡に二つの情報を同一あるいは還元可能と考えていることを示唆している。ハイデガーはこの同一視を明確に否定しているわけではない。しかし、疑問視していること、またそのような同一視が人間の未来に危険をもたらすと警告していることは間違いない。総じて哲学者や芸術家は、このような同一視に批判的な者が多い。筆者もどちらかと言うと批判的な陣営に属する。ただし、肯定する明確な根拠がないのと同様に、否定する明確な根拠もない。それゆえ、この問題は今後とも議論が続くし、続ける必要がある。AIやロボットは社会の様々な領域に浸透してきており、その流れが変わることはない。それゆえ人間が扱う意味を担う情報と、AIやロボットが処理する数理科学的な情報が同一(あるいは還元可能)なのか違うのかを考えることは極めて重要な課題となる。それは、AIやロボットをどのように活用していくべきか、無制限に開発・活用することが許されるのかなどという重大な問題を議論するうえで欠かせない論点だからだ。

 情報を哲学的に考察する場合にもう一つ重要な問題がある。そもそも情報とは何か?なぜ情報というものを考える必要があるのか?という問いだ。情報はその生成、送信、伝達、受信、理解、蓄積などあらゆる場面において何らかの物理的媒体を必要とする。脳神経系とその働きを媒介する電気信号と化学物質、コンピュータの半導体や磁気媒体、音声を伝える空気振動、電磁波など物理媒体なしでは情報は生成することも、伝達することも、蓄積することもできない。これが現代における常識になっている。だが、物理媒体なしの純粋情報とでも言えるようなものは存在しないのだろうか。筆者を含めて現代人の多くは存在しないと答える。だが、そうならば、なぜわざわざ情報という概念が必要となるのか、なぜそれを科学的に研究し有意義な成果を得ることができるのだろうか。もし物理媒体のない純粋な情報が存在するならばこの問いに答えることは容易い。純粋情報は実在者なのだからそれを科学的に研究することは当然に可能だと言える。だが純粋情報が存在するならば、それは何なのだろう。それは物質に先立つ精神、霊魂などの存在を認めることではないか。そういう疑問が生じる。「その通り、物質から独立した精神あるいは霊魂が実在する」と答えることはできる。だが先にも述べた通り、それは多くの現代人の常識に反する。そもそも、そのような存在の根拠となるような証拠はない。だが物理媒体なしの情報が存在しないのであれば、この問いは謎として残さざるを得ない。この哲学的な問いも議論が続くし、続ける必要がある。倫理や道徳の規則や規範、それも情報としてみれば脳や書籍、電子媒体など物理的な媒体に保管されている。だが、規範などは物理的な媒体を支配する物理法則とは全く異質な性質を有する。それは、世界にはカントが提唱したように実践理性の対象と理論理性の対象、つまり倫理や道徳の対象と科学の対象という相互に関係を持ちながらも独立した二つの顔があることを示唆している。それゆえ、「情報とはそもそも何か」、「なぜ情報なるものを考える必要があるのか」を考察することは倫理や道徳と科学の関係を考察するうえで欠かせない。

 現代社会において、情報という言葉は至る所で絶え間なく、それも無造作に使われている。しかし、ほとんど誰も、それが有する哲学的な謎に関心を持っていない。情報社会と呼ばれ誰もが心身とも機械化された情報に支配されている現代、それは非常に危険なことだと思える。


(2024/8/27記)

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