☆ AI、人間、動物、知的能力 ☆

井出 薫

 生成AIの進歩、普及は目覚ましい。仕事を奪われると脅威を感じている者も少なくない。しかし、生成AIは学習データを統計的に処理して言葉、画像、映像を作り出しているに過ぎない。オリジナルはすべて人間にある。AIには人間が有する創造力はない。AIは大量の情報を処理し蓄積することができるが、創造性という点では人間には及ばない。こう考える者は少なくない。

 一方で、人間もAIと同じように他人から言葉、知識、所作、作業方法などを習い、それを適当に組み合わせて様々な行為と思考を遂行している。創造的と言われる行為、たとえば学問や芸術なども同じことだ。人間もAIも原子分子からなる物質であり、人間で実現できることはAIでもできる。こういう唯物論的な信念を抱く者は、AI研究者や自然科学者などを中心に多い。彼と彼女たちはAIが創造力を持つことは可能だと考える。すでに一定程度の創造力を持っていると評価する者もいる。

 どちらの思想が正しいかを判断する前に、人間と現在のAIの学習を比較してみよう。AIの学習データは人間が作成して提供するかネットやデータベースからAIが自動収集する。AI自身が学習データを作成して他のAIに提供することもできる。AIの学習データは基本的に(論理的で反復可能な)合理的なものに限られる。一方、人間が学習するデータは非合理的なものが多い。オオスズメバチに刺されると激痛に襲われる(と聞いている)。その痛みの激しさは例えようがなく経験のない者には絶対分からないと言われる。稀ではあるが死に至ることもある。刺された経験がある者は特に危険性が高い。AIは「オオスズメバチに刺されると人間は猛烈な痛みに襲われ、場合によっては死の危険もある」という合理的なデータを学習することはできる。そして、Chat−GPTでその知識を披露することもできる。だが猛烈な痛みそのものを知ることはない。機械はオオスズメバチに刺されても痛くも痒くもない。そもそも現在のAIもロボットも痛みを感じるようなハードウェアでできていない。痛みだけではなく、触覚、味覚、嗅覚などの感覚を学ぶこともできない。対人関係の悩みや心身の不調、精神疾患の辛さを知ることもない。先日、白昼、強烈な日差しが照り付ける歩道を歩いていたとき若い女性が悲鳴をあげながら日傘を振り回している場面に出くわした。見ると虫が飛んでいて、追い払おうとして日傘を振り回している。道に止まった虫を見るとどこにでもいる変哲のない緑色のコガネムシに過ぎなかった。「危険はない、大丈夫です」と声を掛けようかと思ったが、よほど虫が嫌いなのか急に虫が飛んできてパニックになったのか相変わらず女性は悲鳴をあげながら日傘で虫を追い払おうとしている。下手に声をかけて却ってパニックが高じるといけないと思い、そのままにしていると、漸く落ち着いたのか女性は急ぎ足でその場から立ち去った。しばらく歩いているうちに、ふと不安を感じた。あの場面を誰かが見ていたら筆者が女性を襲おうとしたと勘違いするのではないか。あのとき第三者が見ていたかどうか分からない。いたとしても筆者が襲おうとしていたと勘違いするかどうかは分からない。筆者のいる方とは全く別の方に向かって日傘を振り回していたからそうではないと気付くはずだ。そう自分に言い聞かせながらも不安は残った。もちろんその後何事も起こらなかった。女性も虫のことは覚えていても近くに筆者がいたことなど忘れているだろう。路上をモニターしていればこの場面をAIが学習することはありえる。しかし路上で日傘を振り回して虫と格闘していた女性の恐怖心も、そこに出くわした筆者が後で不安を感じたことも実体験することはない。こういう体験をするには人間と同じように自由に街中を散歩し、恐怖心や不安を感じる身体が必要になる。

 つまり学習するデータが人間とAIとでは大きく違う。それに伴い出来ることも変わってくる。悲鳴をあげながら日傘を振り回して虫と格闘している女性と出会ったとき、推理作家ならば虫恐怖症の女性を利用した犯罪トリックを思いつくかもしれない。しかし、AIにはそういうことはできない。AIが虫恐怖症の女性を使った犯罪トリックのミステリーを書いたとしても、それは実体験から得られたものではなく、同種の作品からの編集で得られたものでしかない。

 今一つ学習で異なるのは効率だ。AIは人間とは比較にならないほど高速で大量のデータを収集し処理し蓄積することができる。だからChat−GPTはどんな質問にも尤もらしい答えをする。アイドル、ウルトラマン、ヘーゲル哲学、囲碁将棋、各国の政治経済、超弦理論、ゲノム編集、リフレ派やMMT、世界各国の歴史など何でもござれだ。だが、AIが自然な会話ができるようになるには、人間の子どもよりも遥かに大量の学習データが必要になる。囲碁将棋では今やAIが名人を凌ぐが、強くなるために必要とされる学習データ量はAIの方が遥かに多い。人間は処理速度や記憶の正確さでは大きく後れを取るが、少ないデータで様々なことができるようになる。

 なぜ人間は少ない学習データで効率よく知識や技能を身に着けることができるのか分かっていない。言語についてはチョムスキーが提唱する普遍文法の機能が人間の脳に備わっているという仮説で説明がつくかもしれない。だが囲碁や将棋は説明が付かない。それゆえ、言語についてもチョムスキーの普遍文法の存在に疑問を持つ者は多い。もし、効率よい学習のメカニズムが完全に解明できれば、それをシミュレーションすることでAIの能力は飛躍的に高まる。

 効率よい学習のメカニズムが解明されれば同時に創造力の謎が解ける可能性も高まる。人間は無意識に学習データを(現時点では解明されていないメカニズムにより)効率的に処理しており、同時にそのメカニズムの中から創造という行為も生まれてくると推測される。閃きなどと表現される創造力は、無意識的なデータ処理により生まれるために、私たちはなぜそれが生まれるのか分からない。だからAIには不可能な創造力が人間には備わっていると想像したくなる。だが、そうではなく、やはりそこにも明快な科学的なメカニズム−アルゴリズムと言い換えても良い−が備わっている。それが解明されれば、ニュートンやアインシュタイン、ガウスやリーマン、ノイマンやチューリング、ダヴィンチやピカソ、バッハやベートーベンを超える天才的創造力を持つAIやロボットが誕生する。ただ、脳の研究は技術的に容易ではなく倫理的な課題もたくさんある。それゆえ謎を解くにはまだまだ長い時間が掛かることが予想される。だが、人間と同等以上の創造力を有するAIやロボットを生み出すことは原理的には可能であることは間違いない。多くのAI研究者はそう考える。もしそれが不可能だと言うのであれば、科学では決して解明できない心霊現象など超自然的な存在を認めざるをえなくなると主張する者もいる。

 このような考えには説得力があり支持する者は多い。だが、この思想は人間とAIやロボットのハードウェアの根本的な違いを軽視しているように思える。ハードウェアの違いは求められる知的能力に決定的な違いを与える。オオスズメバチは人間には極めて危険な存在で、生態を研究し駆除又は避ける方法を考案する必要がある。一方、トンボや蝶は目を楽しませてくれ心を癒してくれるから駆除する方法など考えない、寧ろ種が絶滅しないように保護する方法を考える。一方、AIやロボットにはオオスズメバチも蝶もトンボも有害でも有益でもない。それゆえ駆除や保護を考える必要はない。人間は軽い怪我なら自然に治る。しかしロボットは傷が付いたら修繕しないと治らない。ここでも大きな違いが生じる。求められるものが違えば、それに適した知的能力にも違いが生じる。AIやロボットが自律的に学習して発達していくとしても、AIやロボットが獲得する知的能力は人間のそれとは大きく異なる。人間と他の動物でも同じことが言える。草食動物、肉食動物、雑食動物それぞれで必要となる知的能力は異なる。暮らす場所や身体の大きさ、飛べるか泳げるかなど身体能力の違いでも必要とされる知的能力は異なってくる。

 AIやロボットは人為的な産物で自然環境の中で生物進化の一環として誕生したものではない。だが、それでも地球史の中で生まれた存在であることには変わりない。その意味では地球環境の中に存在すると言える。人間、人間以外の動物、さらにはそれ以外の生物、AIやロボットそれぞれで、自然界における位置づけ、進化の系統が異なる。そして、それぞれ合目的的な行動を可能とするために必要とされる能力も異なる。AIやロボットが進化すれば、いつの日か多くの分野で人間を圧倒することになるかもしれない。だが、それでもAIとロボットの知的能力と人間の知的能力にはその身体の違いという存在論的差異に基づき違いが残る。そして、それは優劣の問題ではなく性質の違いの問題になる。多くの分野でAIやロボットが人間を凌ぐとしても、人間より優れているということではない。また人間と他の動物の間にも優劣がある訳ではない。違いがあるというだけのことなのだ。だから創造力についても、たとえAIやロボットに創造力を認めるにしても、それは人間の創造力とは異質なものとなる。それゆえ、AIやロボットが創造力を持つことができるかどうかは、「はい」か「いいえ」で答えられる問題ではない。私たち人間がどう考えるかの問題なのだ。だから答えが状況によって変わってもよい。

 因みに高い知的能力の存在と意識の存在を等価だと考える者がいる。しかしこの考えには同意しがたい。そもそも本稿で述べていることからも分かる通り「知的能力とは何か」ということに明確な答えや定義がある訳ではない。虫を追い払うために日傘を振り回すことを知的能力と言えるかどうか、その場面に出くわし不安を覚えることを知的と捉えることができるかどうか、それは見方による。それゆえ、高い知的能力を持つとはどういうことか明確に定義できるわけではない。知的能力と意識が全く無関係だとは思わないが、意識という現象の存在を知的能力と等価と考えることには根拠がない。むしろ意識という現象は人間、動物、AI、ロボット、それぞれのハードウェアに依存するところが大きい。いかに賢くなっても現在のハードウェアの延長線上でAIやロボットが意識を持つようになる根拠はいまのところない。一方、哺乳類はもちろん多くの動物に意識があると(筆者を含め)多くの者が考えているが、これも確実な根拠がある訳ではない。デカルトは人間以外の動物は機械だと考えた。デカルトの考えが間違いであることを証明した者はいない。そのことはAIやロボットが意識を持つようになる根拠もないが、持つことができないと言える根拠もないことを示唆する。ただ筆者は金属と半導体の塊であるAIやロボットに意識が生じるとは想定しがたいと考えている。一方で生物進化の過程で生まれてきた様々な動物には人間とは異質だとしても何らかの意識が存在すると考える。もしAIやロボットが意識を持つことがあるのであれば、植物にも意識があっても不思議ではない。組成や進化系統を考えると、AIやロボットと人間の差は、人間と植物の差よりも大きいと考えられるからだ。AIやロボットも意識を持つことができると主張する者のほとんどは植物には意識がないと信じている。だがAIやロボットよりも植物に意識がある可能性の方が高いのではないか。彼と彼女たちは暗黙裡に「意識=高度な知能」という確たる根拠のない図式を妄信しているように思える。


(2024/8/12記)

[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.