☆ 経済学と科学 ☆

井出 薫

 経済学は経済現象を観察して理論的モデルを構築し、そこから推論した結果を現実と照合する自然科学と同種の科学だと言う者がいる。一方で、経済学は科学ではなく、ある種の処世術、経営術などに過ぎないと言う者もいる。この手の議論はたいてい水掛け論で終わる。どちらでもよいではないかという意見もある。だが、この問いは経済学と科学の本質を見極めるうえで役に立つ。

 科学とは何か、科学と似非科学を区別する基準は何か、こういう問題を英米の分析哲学は哲学の主要課題の一つとして論じてきた。もしこの問いに明快な解答が与えられるのであれば科学が何かは確定する。だがこの試みは成功しなかった。科学に共通の本質などはなく、ウィトゲンシュタインが指摘するところの家族的類似性が存在するに過ぎないという意見もある。ただいくつか科学と呼ばれるものの特徴や基準を挙げることはできる。観測、観察、実験などで収集したデータを分析して抽象的な理論的モデルを構築し、そこから演繹される予測を現実と照合する、一致したらさらに他の事例に適用できるか検証する、不一致の場合はモデルの修正を行い現実と照合する、こうことを繰り返して理論が改善され拡張されていく。これが科学の特徴の一つとして挙げられる。また次の二つを科学の基準とすることが考えられる。一つは個人のイデオロギーや体験に関わりなく合理的に思考すればその妥当性を誰もが認識できること(つまり客観性、少なくとも間主観性が備わっていること)、もう一つは実験、観測、観察などを通じて理論の検証または反証ができること、この二つだ。ただこれには問題がある。数学や論理学は現実と照合して検証又は反証するものではないから二番目の基準には合致しない。数学や論理学は科学ではないと考えることはできる。しかし、それならば何なのか、哲学か?そうではない。哲学は論理学や数学を論じることがある。また、それを土台として、あるいは模倣して哲学体系を構築する哲学者がいる。しかし、数学や論理学と哲学は方法も対象も異なる。数学や論理学は科学の道具なのだと論じる者もいる。だが道具とは何なのか、何を意味するのか答えるのは難しい。このように科学とは何かという問いに唯一無二の明確な解答はない。

 しかしながら、上で論じたような議論を通じて経済学が科学であるか否かを論じることはできる。経済学は経済現象−経済現象とは何かという問題はここでは議論しない−の分析から抽象的な理論的モデルを構築し、経済学的な予測を立て現実と照合する。この理論的モデル構築の手続きでは数学的・論理的整合性が重視されるから間主観性は保証されている。経済学の予測はしばしば現実と合致しない。それが経済学が科学ではないという意見に繋がるのであるが、需要増又は供給減で価格が上がり需要減又は供給増で価格が下がるという経済学の法則は多くの場合現実と合致する。そして経済学の法則や原理の多くは検証あるいは反証可能性を有する。つまり前節で述べた科学の二つの基準を経済学は満たす。それゆえ経済学は自然科学と同じような科学だという主張にも一理ある。しかもカオス現象など自然科学の領域でも未来を予測することが困難な場合は珍しくない。また、経済活動はマルクスやカール・ポランニーが述べているとおり人間社会と自然の間の物質循環として捉えることができ、また身体は自然の一部であることから、経済現象を自然の一部として捉えることもできる。だとすると、経済学は当然に自然科学と同種の科学だということになる。いずれにしろ、経済学は科学ではなく単なる処世術、経営術のようなものだとする見解は公平な評価とは言えない。

 だが、問題となるのは経済に限らず人間の社会活動や社会現象には必ず意識、意図、感情、欲望など、しばしば心という言葉で表現されるような現象が極めて重要な働きをするということだ。経済活動は人々の思惑や感情などに大きく左右され、しかもそれはしばしば不合理で予測不能なものとなる。数学を駆使した経済学の予測がしばしば外れるのも心的現象の持つ不確実性によると言ってよい。経済現象は複雑だから予測が困難、あるいは予測不可能なのだという意見があるが正しいとは言えない。複雑な現象は自然界にも無数にある。生態系などは人間社会以上に複雑と言える。だが定量的な予測はできなくとも定性的な予測ができ、それはたいていは現実と合致する。また合致しない場合はしない原因が探求できる。つまり正確な数値は導出できないがパターンは推測できる。だが経済学ではパターンという定性的な次元でも説明が付かないような事象がしばしば起きる。その原因は社会が複雑であることよりも、心的現象が自然現象とは異質な存在で、それが経済現象に大きな影響を与えるからだと考えられる。

 先に述べた通り科学の概念は曖昧で、経済学を科学と考えてもよいし、科学ではないと考えることもできる。だが、ここで述べてきた通り、経済学には科学と呼ぶことが相応しい様々な性質がある。その一方で、自然科学とは異質な存在でもある。そして、その異質さを生み出しているのが意識、意図、感情など心的現象なのだ。あらゆる学は対象となる存在者そのものとは解消できない差異を持つモデル・道具として存在する。自然科学のモデル・道具、数学や論理学のモデル・道具、経済学のモデル・道具、経済学以外の人文社会科学のモデル・道具、哲学のモデル・道具、それぞれのモデル・道具にはそれぞれ固有の対象があり、その対象に即した性質がある。すべてのモデル・道具を統一することはできない。それゆえ経済学のモデル・道具には自然科学のそれとは異質な性質が存在する。経済学が自然科学と同種の科学か否かという問いは、この異質な性質が自然科学の範囲内に収まるか否かという問いに等しい。

 心とは何か、心的現象とは何か、心的現象と自然現象との関係はどうなっているのかという問いに明確な答えがない現状では、この問いに答えることはできない。現時点では、経済学は科学として捉えることができるが、自然科学とは異質の科学として存在していると答えるしかない。(注)
(注)経済学以外の人文科学や社会科学の各分野が科学と言えるか否か、また科学と言えるとして、それは経済学と同種の科学なのか否かについては別の機会に論じる。

(補足)
 経済学には外部から観察可能な経済現象を科学的に分析するという分野の他に、どのような経済状況を目指し、それをどのようにして実現すべきかという倫理学的または規範学的な分野がある。後者では、たとえば所得や資産の格差拡大には目を瞑りGDPの最大化を目指すか、GDPは犠牲にしても格差の最小化を目指すかというようなことが議論となる。このような倫理的な問題意識が存在する学問分野は自然科学には還元されない。つまり経済学といっても様々な分野があり、経済学は科学かという問いにも、それぞれの分野で異なった議論が存在することになる。本稿はもっぱら観察可能な経済現象の分析や予測を旨とする経済学について論じている。なお科学と倫理の関係については別の機会に論じる。


(2024/7/28記)

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