☆ 科学と哲学 ☆

井出 薫

 科学と哲学は余り相性が良くない。科学者は哲学者の言説は曖昧で詭弁が多く科学研究には役立たないと無視する。哲学者は科学者は素朴な科学的実在論に陥って自らが暗黙裡に前提している思想に無自覚だと批判する。なお、本稿では、特に明記しない限り、「科学」は自然科学を意味するものとする。

 現代においてはもちろん科学が圧倒的に優位であり、哲学は大型書店の書棚には大量の本が並んでいるとはいえ現代人の思考や行動に大した影響を与えていない。哲学者自身が自嘲気味に哲学は役立たないと公言することもある。一方、科学の力は強大で、著名な科学者の言うことはほとんどの者が信じる。また事実、現代文明の多くは科学の成果に支えられている。だが、科学と哲学は決して相反するものではなく、また哲学なしで私たちは済ませることはできない。

 科学の中には哲学的とも言えるような問いが多数あり、それが科学の進歩に役立っている。たとえば、「重力と電磁力はなぜ逆二乗則に従い、逆三乗則ではないのか」、「なぜ現実世界は三次元空間で、二次元空間ではないのか」という問いは哲学的な色彩の強い問いだと言ってよい。「地球に生命が存在するのはなぜか」という問いも哲学めいたところがある。これらの問いは、哲学の根本問題の一つ「なぜ存在者が存在し、無ではないのか」という問いに似た面がある。

 逆二乗則については遠距離力は必然的に逆二乗則になるという答えが与えられる。それは球面の面積が中心からの距離の二乗に従い増加するからだ。球の中心に力の源泉となる物体を置き、働く方向と強さを表すベクトルで力を表現しよう。すると逆二乗則に従う力は球面全体で面積分すると「球面の面積=距離の二乗に比例」で「力の大きさ=距離の逆二乗に比例」なので距離に関わりなくその値は一定になる。つまり力は全体として減衰することなく無限に遠くまで到達する。これが重力と電磁力が逆二乗則に従い遠距離力であることの理由になっている。ただし電磁力は電荷にプラス・マイナスがあり同符号の電荷は反発し異符号の電荷は引き合うから宇宙全体としてはプラスマイナスゼロとなり大きな力とはならない。そのため重力が宇宙の構造と運動を支配している。だから現代宇宙論は一般相対性理論を土台として展開されている。

 このような考察は実験や観測によるものではなく思弁的なものであり、一種の哲学的思考だと言ってよい。逆三乗則に従う重力や電磁力を実験的に作り出すことはできないからだ。ここに科学にも哲学があることが分かる。ただし、先に挙げた問題を解くにはいずれも科学の知識が必要で、哲学者に質問しても、その哲学者が科学に詳しくない限りは正しい答えは返ってこない。つまり哲学的な問いではあるが科学で解決すべき問題であることには変わりはない。空間がなぜ3次元か?という問いも物理学の究極理論の候補である超弦理論で説明できる可能性がある。それゆえ、科学に哲学的な側面があるとはいえ、現代においてはそれらの問いもまた科学の問いであり哲学の問いではない。その点では哲学が役立たないと考える科学者が多いことは無理もない。それでも、先に挙げたような問いが哲学的な色彩を帯びた問題であることは認められる。言い換えると哲学を無視していても科学者もまた暗黙裡に哲学的に思考することがあるということだ。科学は実証性を持つことが肝要であるが、科学をすべて実証的な観点でのみ捉えることはできない。それでは科学は進歩しない。科学の進歩には哲学的な思考が欠かせないし、科学者の多くが無意識に哲学的に思考している。それゆえ、哲学に深入りすると研究者としてのキャリアを傷つける恐れがあるとは言え、注意深く扱えば哲学的思考は科学者の研究に役立つ。

 科学の成果をいかに活用するか、どのような科学を推進すべきなのか、こういった問いに答えるには科学以外の思想が必要となる。科学は、何であるか、何ができるかに答えることはできるが、何をすべきかに答えることはできない。脳死とは何か、その判定基準は何か、脳死からの生還の可能性はあるのか、こういう問いには科学が答えを与える。もちろん哲学では答えを与えることはできない。だが、脳死を死として認め臓器移植を容認するかどうかは科学で決めることではない。クローン人間を作ることができるかどうか、できるとしてどういう方法があるか、これは科学の問題で科学が答えを用意する。しかし、できるということと、遣ってよいかどうかは別問題で、後者は科学に答えを求めることはできないし、求めるべきでもない。科学万能主義的発想に流され、優生学や優生思想は知的障碍者などの人権を著しく損なった。それはその土台となった科学が不完全だったからではなく、科学で決めるべきではないところに科学を持ち込んだことによる。科学的真理と正義は異なる。そして正義は哲学的な思考なしには定められない。ただ、その一方で哲学的な思考を援用して見いだされた正義を実現するために科学は有益な助言を与えることができる。倫理的な諸問題、政治的な諸問題などでは科学と哲学は補完しあう関係にある。

 さらに、科学と哲学が手を携えて初めて解明が期待される学問領域がある。心、意識、精神などと呼ばれる存在の本質を解明する学がそれに該当する。心の志向性やクオリア(感覚質)の問題などもそれに含まれる。科学は脳神経系のネットワークで起きている電気的、化学的な変化を研究し、そこに存在する法則を発見することができる。赤信号を見て横断歩道の前で立ち止まっているとき、脳神経系とそれに結合した身体諸器官や細胞、さらには内分泌系などに何が起きているか、その原因は何か、続いて何が起きるか、これらの問題に対して、科学は答えを与えることができる(注1)。だが、それが分かったとしても、脳神経系などの電気的、化学的諸反応や信号伝達など科学的に把握される客観的な事実と、赤いものを見ているという感覚、赤信号だから横断してはいけないという認識など主観的な体験とをどう結びつけるかという問題は科学だけでは解明できない。それは哲学的ゾンビ(注2)が論理的には否定できないことからも分かる。科学の対象と心や意識、精神などと呼ばれる対象の間には科学では埋めることのできない溝がある。要するに科学は人がある行動、ある思考をしているときに、脳内など身体で何が起きているかを知ることはできるが、それが心とか意識とか精神とかいう主観的な存在とどう結びついているかを知る方法を持ち合わせていない。自然科学というモデル・道具において、自然現象は自然現象の集合体で因果的に閉じており心的現象をそこに取り込む余地はない。自然現象から生じるのは自然現象だけで、自然現象から心的現象、心的現象から自然現象を生み出すことはできない。それゆえ、自然科学から心や意識、精神という言葉で語られる諸現象を導くことはできない。
(注1)ただし、身体の至る所にびっしりとセンサーを取り付けモニターしながら日常生活をすることは技術的には不可能で倫理的にも許されない。従って、現実問題としては脳内処理などの詳細なメカニズムを解明することは極めて難しい。問題解明にはスパコンなどを使ってシミュレーションすることが欠かせない。
(注2)外部から観察可能な姿かたちと振る舞い、解剖学的に確認される器官や細胞などの体内組織の構造と機能、いずれにおいても完全に人間と同じである(=科学的には人間と区別できない)にもかかわらず心がない存在者のことを哲学的ゾンビと呼ぶ。哲学者のチャーマーズにより提唱された。

 さらに、人文科学や社会科学を自然科学に還元することはできない。それゆえ、これらの分野では必然的に自然科学で得られた手法、たとえば「数理モデルの構築→モデルを使った推論→現実との照合」などの他に、人文・社会科学各分野固有の方法や概念が必要となる。しかし、それを見いだすためには哲学の助けが欠かせない。

 現代において、科学の力は圧倒的で人々の信頼も厚い。信頼されることが少ない哲学とは対照的だ。だが、それでも、科学だけではなく、私たちがこれからも生きていくためには科学と哲学の両方が必要となる。


(2024/7/12記)

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