☆ 現代におけるマルクス ☆

井出 薫

 大型書店に行くと今でもマルクス関連の著書は多数陳列され新刊も多い。斎藤幸平の本などは良く売れている。一方で、現代日本ではマルクスとマルクス主義は過去の存在と扱われている。それは立憲民主党がネットなどでしばしば左翼と言われることから分かる。かつてマルクスの思想が一世を風靡していた時代、左翼とはマルクス主義あるいはそれに近い無政府主義のことを意味し、そのうちでテロも辞さない暴力革命論者を極左と言った。その時代の基準からすると立憲民主党などは中道、せいぜい中道左派に過ぎない。同党幹部の野田や岡田などは中道乃至は中道右派に属する。立憲民主党はマルクス主義的な共産主義を否定しているし、自衛隊と日米安保を合憲と認めている。大企業や高額所得者・大資産家への課税強化も明確には打ち出していない。それでも現代においては左翼と言われる。このことは筆者にはマルクスが忘れ去られていることを示唆しているように思える。

 マルクスは過去の人なのだろうか。あるいは斎藤幸平が言うように「今こそマルクス」なのだろうか。マルクスの主著『資本論』を軸に考えてみたい。

 『資本論』の基礎原理は労働価値説で、これを出発点に議論が展開される。労働価値説自体はアダム・スミス、リカードに遡るが、マルクスのそれは商品価値は商品の生産に要する社会的平均労働時間に等しいと明確に定義している点に特徴がある。確かに商品は労働生産物で労働なしには生産されない。しかし、そのことを以て「商品価値=生産に要する社会的平均労働時間」が必然的に帰結する訳ではない。因みにアダム・スミスとリカードの労働価値説はもう少し曖昧なものとなっている。マルクスの労働価値説は生産力が低い段階では成り立つ。100人の共同体があるとする。この共同体は農耕と漁業、農耕の道具の制作、漁業の道具の制作で生計が成り立っており、それぞれ25人が従事し毎日8時間働いている(体力と日没の関係で8時間以上は働けない)。共同体の生産力は低く各職務に25人を配置しないと共同体全員の生活を支えることはできない。共同体が、農耕をする者25人、漁業をする者25人、農業の道具を制作する者25人、漁業の道具を制作する者25人の4つのサブ共同体に分かれ、それぞれの生産物が市場交換される商品になったとしよう。その場合、商品の価値は労働時間で決まり等価交換される。さもないと4つのサブ共同体は共倒れになる。だが、生産力が向上し、誰が何を生産するかに恣意性が出てくると、商品価値は労働時間だけでは決まらず消費の効用(需要)にも依存するようになる。100人の共同体で生活必需品は40人だけで十分に生産できるようになると、他の60人のうち不労所得者である資本家を除く労働者(たとえば50人の労働者)は共同体の需要に従って求められる労働に従事することになる。サッカーが人気になればサッカー選手が増えてたくさんの収入を得ることになるし、映画が盛んになれば映画製作者や俳優がたくさんの収入を得ることになる。さらに現代のデジタル時代ではデジタルコンテンツはほとんど追加費用なしで無限にコピーできるから、人気があるコンテンツを作り出した者は資本家でなくとも莫大な収入を得ることができる。また広告宣伝費を受け取りデジタルコンテンツそのものは希望者に無償で配布することもできる。デジタル時代の現代ではマルクスの労働価値説(とそれに基づく等価交換)は成り立たない。また時代を遡っても原理的には労働価値説は成立する場合もあるが成立しない場合もあると判断する方が正しい。『資本論』第3部ではマルクスは資本主義社会では商品は等価交換で売買されるのではなく生産価格(費用+平均利潤)で売買されるとしているが、生産価格に置き換えても難点は解消されず、やはり労働価値説は成立しない。

 マルクスの『資本論』の核心は労働価値説から導出される剰余価値理論にある。労働者は労働力を資本家に売る。疑似的に商品化された労働力の価値は、他の一般的な商品と同様に生産に必要な社会的平均労働時間であるが、それは労働者が生き延びて明日また現場で労働できるために必要となる生活必需品の商品価値に等しい。労働者は生産現場でこの生活必需品の価値に相当する労働時間(これを必要労働という)を超えて労働させられる(これを剰余労働という)。そして、この剰余労働が商品の流通過程で剰余価値として結実する。さらに資本主義社会では剰余価値が産業資本家の利潤、金融資本家の利子、大土地所有者の地代に分割される。ここで産業資本家が利潤のすべてを個人的に消費するのではなく、一部を追加資本とすることで拡大再生産が行なわれ資本主義は発展していき、資本家はますます豊かになる。ただし定期的に恐慌に襲われ資本が破壊され、最終的には資本主義はその巨大さゆえに崩壊する。これが『資本論』の根本的な教えであり、マルクスの革命思想の根幹をなす主張、労働者は自ら行った(本来労働者に帰属すべき)剰余労働を資本家に搾取される、そして資本主義とはこの搾取により初めて維持されるシステムであるという労働搾取理論が導き出される。そして、歴史を動かすのは搾取される勤労大衆と支配者である不労所得者との間の階級闘争であり、資本主義でプロレタリア階級とブルジョア階級との最終決戦が行なわれ、プロレタリアが勝利しプロレタリア独裁を経て初期段階の階級なき共産主義(レーニンはこの段階を社会主義と呼ぶ)が実現する。さらにより高い段階として(全員が必要とするだけのものを何の制約もなしに入手できる)真の共産主義へと歴史は展開していく。これがマルクス『資本論』と関連著作の骨子なのだが、出発点である労働価値説が成立しないので、剰余価値理論が疑わしくなり、資本主義がもっぱら剰余労働搾取により成り立つという主張も根拠が乏しくなる(注1)。
(注1)剰余労働の搾取には二つの手法がある。労働時間を長くし剰余労働時間を増やす方法、新技術の導入などにより生産力を向上させ必要労働時間を短くして剰余労働時間を増やす方法の二つだ。前者を絶対的剰余価値生産、後者を相対的剰余価値生産などと呼ぶ。資本主義の発展にとってより重要な手法は、技術革新などを促すことで実現する相対的剰余価値生産と評価される。

 マルクスの労働価値説、剰余価値理論(注2)、搾取理論、資本主義崩壊論はいずれも疑わしく、少なくとも現代においてはそのままの姿では現実世界に適用できない。資本主義は労働者を搾取することを目的とするシステムではなく資本(=自己増殖する価値体)を増大させることを目的とするシステムであり、労働者からの搾取が必然的に帰結する訳ではない。先の(注1)で資本生産には絶対的剰余価値生産と相対的剰余価値生産の二つがあり後者がより重要であると指摘したが、相対的剰余価値生産では資本家は利潤を増やしながら労働者の労働環境・生活環境を改善することができる。資本家にとって労働者からの搾取は目的ではなく状況により用いられる手段に過ぎない。そして発展した資本主義では、労働者の生活改善なくして消費の活性化はなく資本の円滑な増殖もない。労働者の賃金を上げることは資本家にも利益がある。現代の資本主義では資本家階級の中核をなす企業経営者は賃金や労働者の労働環境の改善に熱心な場合が少なくない。それが自分たちの利益に繋がるからだ。マルクスが生きた時代は資本主義の発展が低い段階に留まっており市場は熾烈な競争下にあった。事業者はプライスメーカーとなることはできず常にプライステイカーの地位に甘んじるしかなかった。そのため労働者の賃金を下げ、かつ長時間労働させるという誘惑に常に駆られ、かつ事実そのとおりになっていた。だが今は違う。むしろ労働者の環境を改善することで有能な労働者を集め市場競争をリードすることができる。また政府などに働きかけて豊かな市場を出来るように努めている。そして、それが巡り巡って資本家である企業経営者などの利益に繋がる。
(注2)労働価値説と剰余価値理論は必然的に、生産要素である労働力と生産手段(機械や用具など労働手段、燃料や資源、半製品など労働対象からなる−土地も含まれる)のうち、新しい価値を生むのは労働力だけであり、生産手段は自らの価値に等しい価値を新しい生産物に移転するだけだとする理論を含む。そこから、『資本論』では生産手段を不変資本、労働力を可変資本と呼び、資本は不変資本と可変資本の和からなり、労働力を実体とする可変資本のみが剰余価値を生みだす原動力となると論じられる。だからこそ(新たな価値を生むという意味で)「可変」資本と呼ぶ。また、不変資本(生産手段)を死んだ労働(過去の労働の産物)、生産現場での労働力の支出としての労働を生きた労働と呼び、生きた労働が(必要労働を超えることで)剰余価値の源泉となるという説明がなされることもある。

 それでは、労働価値説、剰余価値理論、搾取理論などはもはや現代においては無意義なのだろうか。マルクス主義者が言うほど意義があるとは言えないが、無意義ではない。ではどこに意義が見いだされるのか。資本生産には絶対的剰余価値生産と相対的剰余価値生産があり資本主義の発展には相対的剰余価値生産が重要であると指摘した。相対的剰余価値生産は新技術の開発、事業運営の改善、国民経済全体の生産性向上などにより実現される。これは資本主義が利益を上げて成長するためには経済システムの差異を生み出すことが決定的に重要であることを示している。そして特に重要なことは時間的なシステムの差異の創出だと言える。そして、その他にも空間的・地域的なシステムの差異の創出と活用(資源の遍在、国による賃金や土地の価格の違い、生活水準の違いなど)、権力関係の差異の創出と活用(資本家と労働者の力関係など−絶対的剰余価値生産はこれに属する)、経済的システム間あるいはシステム内での情報の差異の創出と活用(情報収集・分析・活用、知的財産権、情報の非対称性など)、以上4つの経済システムの差異創出・活用により資本は生産される。特に社会を発展させるうえで最重要なシステムの差異はマルクスが相対的剰余価値生産と表現した時間的な経済システムの差異の創出であり、シュンペーターのイノベーションの思想に継承されている。このようにマルクスの理論は多くの点で誤りを含むが、相対的剰余価値生産の理論で経済システムの差異が資本生産の鍵であることを事実上発見しており、現代的な意義が十分にある。ただし、この点を理解するためには必ずしもマルクスを参照する必要はない。その点ではマルクスの理論の意義は歴史的なものと評価するのが妥当だろう。また、マルクスの労働価値説は妥当性を欠くが、労働者が社会を維持しているのであり、企業経営者、政権政党の政治家や官僚たちが社会を維持しているのではない。(これらの支配層に属する者たちが全て単なる不労所得者だと評価するのは公平ではないとしても)労働者こそ社会の主人公であるべきで、その点から労働者が主権者である社会主義や共産主義を実現するべきだとする政治的主張には説得力があり現代でも多くの支持者がいる。官僚の幹部や政治家、企業経営者など資本家階級に属する者たちは社会全体と個々の企業の円滑な運営に責任を持つという重要な役割を担っており、単なる寄生者・不労所得者とは言えない。だが、資本主義においては常にこれら資本家階級に属する者たちが富と権力、栄誉を独占する傾向がある。それゆえ労働者の根源的な重要性が認識される必要があり、また誰もがそれを認識できるような社会を作るべきだと言える。そのことを私たちに論理的かつ明確に示したという点でマルクスは卓越した慧眼の持ち主だったと評価してよい。

 『資本論』の重要な論点の一つとして貨幣の謎を解いたとマルクスが豪語した価値形態論がある。マルクスは価値形態を、ヘーゲルの弁証的な叙述を援用しながら、単純な価値形態、展開された価値形態、一般的価値形態、貨幣形態と展開し、一般的価値形態の一般的等価物が貴金属に定着したときそれを貨幣形態だとしている(注3)。近年MMTに注目する者が増え、貨幣論におけるクナップの貨幣の表券主義(貨幣国定説)が再評価されている。クナップは貨幣に関する思想として金属主義と表券主義を取り上げ後者が正しい貨幣論であるとする。貨幣とは国家が経済運営を円滑にするために発行するものであり、そのもの自体には実質的な価値はなく、貨幣の本質を価値ある貴金属とする金属主義は間違っていると論じている。当時は金本位制が世界経済を支えており金属主義を支持する者が多かった。マルクスもその例に漏れず金属主義の立場をとっている。しかし、今では金本位制は廃棄され管理通貨制が確立し、実物としての貨幣は通貨の一部としてのみ存在し、通貨自体には物としての実質的な価値はない。現代においては通貨としての貨幣の大半は口座に記された数字に過ぎない。その意味で、貨幣の本質的な在り方についてはクナップが正しく、金属主義は誤っていたと言える。それゆえ金属主義を取っていた点ではマルクスの価値形態論は間違っている。だが、マルクスの価値形態論の論理は、貨幣の記号性つまり名目性を明確に示しており、その実質は金属主義よりも表券主義に近い。ただマルクスは前述したとおり労働価値説と等価交換を採用しており、その結果、価値形態論にも同一労働時間を含む商品間の等価交換という図式が導入され、貨幣=(労働生産物である)貴金属という思考回路が生じてしまっている。だが、価値形態論を労働価値説と金属主義から解き放てば、マルクスの価値形態論には貨幣の記号性・名目性が見事に示されている。そして、記号に実効性を持たせるためには当然に国家などの絶大な権力と権威を持つ機関が不可欠であることから、マルクスの意図とは真逆ではあるが、その価値形態論は貨幣国定説へと導かれる。このように捉え直すことでマルクスの価値形態論は現代においても意義を持つ。そして、貨幣の記号性を暴くマルクスの価値形態論を参照することで、柄谷行人は貨幣により隠蔽される売り手と買い手の非対称性並びに売り手の実存的跳躍を指摘し、岩井克人は貨幣の循環性・幻想性を導いている。現代においてもマルクスの価値形態論は十分に研究する価値がある。ただし、ここでも過大評価はしてはならない。歴史的な題材として価値があるのであり、価値形態論から現代の金融の諸問題を解く鍵が発見されるわけではない。
(注3)マルクスは労働には抽象的人間労働と具体的有用労働という二重性があるとし、それに対応して商品の価値には抽象的人間労働としての労働時間で規定される価値と具体的有用労働で規定される使用価値という価値の二重性があるとする。そして、価値と使用価値は異質な存在で数学的な等式で等置することはできないと指摘する。このことを基に価値形態論を考察してみよう。単純な価値形態は、「20エレのリンネル=1着の上着」と表される。ここで「A=B」は数学的な等式ではなく「AはBに値する」を意味する。ここで20エレのリンネルは売り手が持つ商品で自ら使うことはなく、対置される商品と交換するための商品で相対的価値形態にある商品と定義され、1着の上着は売り手が交換したい商品で等価形態にある商品と定義される。これはごく簡単な物々交換に対応した形態で売り手と買い手の両者が合意できない限りは交換が成立しない。このことをマルクスは相対的価値形態にある商品の価値が対置される商品の使用価値で表現されているという矛盾が存在することによると説明する。この矛盾を克服するための第一歩が展開された価値形態で「20エレのリンネル=1着の上着」、「20エレのリンネル=一瓶のワイン」・・「20エレのリンネル=一斤のパン」などというリストを表現する。これにより交換成立の可能性は広がるが、それでも相対的価値形態にある商品価値が等価形態にある商品の使用価値で表現されるという矛盾は解消されていない。これを解決するのが一般的価値形態で、展開された価値形態を転倒した形をとる。この形態での等価形態の商品は一般的等価物で全ての相対的価値形態にある商品の価値をその使用価値において表現する。一般的等価物はその使用価値そのものが商品価値を表現するという機能を持つ。これにより相対的価値形態にある商品価値が等価形態にある商品の使用価値で表現されるという矛盾は解消される。一般的等価物は他の商品から排除された特殊な存在で、一般的等価物が貴金属(金又は銀)に定着したときに(『資本論』においては)貨幣形態になる。

 『資本論』第3部「資本主義的生産様式の総過程」の一部箇所では地代論が展開されている。マルクスの地代論はリカードの相対地代論と異なる絶対地代論と呼ばれる。リカードと異なりマルクスは、土地私有制度の存在と農業が資本の有機的構成(可変資本に対する不変資本の比率)が低いことから最劣等地でも地代を生み出すと主張する(注4)。この議論そのものは今ではスコラ的なものでしかない。私的所有権があるから最劣等地でも地代が生じると考えれば十分であり、また地代は経済的に合理的な根拠がある訳ではなく需給の関係だけで決まる。だが、重要なことは『資本論』第3部や関連する草稿や書簡などで地代論を展開する過程で、マルクスが資本主義的競争による過剰生産で地表の流出など自然破壊が起きていることを指摘している点にある。これはまさに現代の環境破壊の問題を先取りしている。これについては斎藤幸平が非常に高く評価しており、斎藤の脱成長コミュニズムの思想的基盤となっている。マルクスをエコロジストであるかのように捉える斎藤はいささか牽強付会ではあるが、マルクスを再評価する際には彼の資本主義における自然環境に関する議論は無視できない。
(注4)可変資本をv、不変資本をc、剰余価値をmとすると、利潤率はm/(c+v)で表現される。ここで剰余価値率m/vが一定だとすると有機的構成が低いほど利潤率は高くなる。それゆえ、有機的構成が低い農業は利潤率が高くなり、農業で主として使用される土地では最劣等地でも地代が発生するとマルクスは論じる。だが、この論法は労働力のみが剰余価値を生むというマルクスの労働価値説を前提とする。だがこれまで述べてきた通り労働価値説は疑わしい。またm/vが一定とする根拠も乏しい。それゆえマルクスの主張は説得力に欠ける。

 他にマルクスには歴史の階級闘争理論があるが、民主主義と社会権を含む人権思想が普及した現代の資本主義においては有効性は乏しい。確かに21世紀に入り格差は拡大しているしエッセンシャルワーカーや非正規雇用労働者、外国人労働者の低賃金など富の分配の不公正が顕著になっているなど現代資本主義には解決すべき困難な課題が多数存在する。だが、資本家と労働者の垣根は低くなっており、どちらに所属するかを判断することは難しい。何より格差、不公正な分配などの問題は資本主義に内在する問題というよりも政治の問題になっており、また経済の問題として見る場合も階級闘争という観点で捉えることには無理がある。歴史の階級闘争理論はすでに現代においては通用しないと解釈すべきだと考える。

 『資本論』は19世紀の著作(注5)であり、歴史的には極めて重要な、世界宗教の聖典と並ぶとも言える重要な著作だが、多くの点で時代遅れになっており、またそもそもの初めから理論的に破綻している点も多い。だが、それでも、間違っている点においてすら、マルクスの論述は現代でも多くの読者を魅了し、だからこそ「今こそマルクス」などというキャッチフレーズが溢れることになる。通読するのはしんどいが、マルクス自身の手で完成した第1部(資本の生産過程)だけでも読み通す価値がある。難解と言われる『資本論』だがマルクスも述べている通り、困難なのは最初の価値形態論だけであり、他は決して難しくない。数学を使えば簡単に説明できることが言葉で説明されていること、ヘーゲル的な叙述法がしばしば使われていることなどから、記述がくどいと感じることが多いが決して難解なことはない。一読を勧めたい。なお『資本論』第2部(資本の流通過程)、第3部は、マルクス自身の手で完成させることが叶わずエンゲルスが遺稿を編集して刊行している。特に第3部はエンゲルスのオリジナルと言うべき箇所が多く本当にエンゲルスがマルクスの意図を汲み取っていたのか怪しい箇所があり慎重に読むことが必要になる。いずれにしろ、目の衰えた筆者のような高齢者には過去に読んだことがない限り『資本論』を読み通すことは難しいが、若い人ならば時間が掛かったとしても第1部から3部まで読破することができる。そして読破することの意義は極めて大きい。ただ過大評価しないよう注意は欠かせない。
(注5)マルクスの構想では、『資本論』は第1部から4部までの4部構成だった。そして第4部は学説史を記述している。現在では第4部は『資本論』とは別著作として扱われ、『剰余価値学説史』という題名で出版されている。ただ現時点においては同書を入手することは難しい。国民文庫版が親しまれてきたが絶版になっている。ただ、同書を読まなくても『資本論』は理解できる。


(2024/6/27記)

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