井出 薫
倫理学とは何か。規範に関することはすべて倫理学の対象となる。 何を為すべきか・何を為してはならないか、その基準や原則は何か、善とは何か・悪とは何か、正義とは何か・不正義とは何か、善人とは何か・悪人とは何か、善人になるには何が必要か、こういったことはすべて倫理学の課題となる。さらに、倫理学は個人だけではなく、国家や企業、各種団体、小規模なコミュニティなど社会的組織や共同体のあるべき姿も問うべき対象とする。また、個人の倫理と社会的組織や共同体の倫理との関係もまた課題となる。このことから倫理学は法学、政治学、経済学など社会科学と密接な関係を有する。 倫理学には、メタ倫理学と呼ばれる分野がある。メタ倫理学には大きく分けて二つの主要課題がある。倫理学の諸学説(功利主義、義務倫理、徳倫理など)を比較対照し評価することが一つ、もう一つは倫理学で使用される概念、命題、論理の特質を明らかにすることだ。善、正義などの概念がどのような性格を持つか、どのように使用されるかをメタ倫理学は解明する。「金庫には金がしまってある」という事実に関する命題と「金庫の金を盗んではならない」という規範に関する命題は性格が異なる。また事実に関する命題の推論規則と規範に関する命題の推論規則とは性格が異なる。それがどのように異なるのか、あるいは根源的には同じなのか、これもメタ倫理学の重要な課題となる。 さらに、そもそも倫理などというものをなぜ私たちは問題とするのか、というニーチェ的な問いも倫理学の一つの課題と見なすことができる。ニーチェは善悪を基準とする伝統的な倫理を弱者のルサンチマンと批判し、その著『善悪の彼岸』で善悪ではなく優劣を問題とすべきと主張する。しかし、善悪が何であるかが問題となるように、優劣もそれが何を意味するのか、また善悪とどこが違うのかを解明しなくてはならない。さもないとニーチェの主張は単なるアジテーションに終わる。 古今東西、様々な倫理思想が提唱され、時には称賛され時には批判されてきた。それゆえ倫理学には多様な形態が存在し、内容的にも、形式的にも、方法論的にも一つの体系へと集約させることはできない。様々な哲学者、宗教家、共産主義者、自由民主主義者などが自らの倫理思想の優位性を主張しているが、決着がついていないし、決着が付く日が来るかどうかも分からない。また、各思想とも解釈が多様で同じ思想圏内に在りながら厳しく対立することもある。 ここに倫理学の根源的な難しさがある。「人を殺してはいけない」はどの思想圏でも遵守すべき規範となっているが、正当防衛、神への冒涜に対する罰、革命などに関して例外がある。また心神喪失者は殺人を犯しても罰さないという慣行が世界で広く通用している。殺人という極めて重大な違反に対してすら規範は絶対的なものではない。他の規範はいずれも多くの例外があり、解釈に多様性がある。 そもそも倫理とは何か、倫理学とは何か、この問いに対する共通した答えはない。ヘーゲルは道徳と倫理を明確に区別するが、同じ意味で使われることも少なくない。だが、いずれにしろ、人は誰でも倫理を問わないで済ませることはできない。私たちは行動するとき(無意識的なものを含めて)常に倫理を念頭に起き、たとえそれに反するときでもその影響下にある。それゆえ私たちは倫理学から学び考え続ける必要がある。 了
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