井出 薫
哲学と言えば思弁的でテクスト読解と論理とで探求を進める学という印象が強い。しかし、数学と異なり哲学の論理は明快ではなく、また議論の対象が多岐にわたり、使用される概念が曖昧なために数学の確実性や有益性には遠く及ばない。それもあり、哲学など役立たないという悪しき評判が広がる。この状況を改善するために哲学を実証的な学に近づけることはできないだろうか。 事例を考えてみよう。「姿も振る舞いも人間と寸分違わぬアンドロイドAにBがそれと知らず恋をした。それを知ったBの親Cは怒りAを破壊した。Bは号泣し心に深い傷を負った」さて、A、B、Cは男か女か。Aが男、Bは女、Cは父親だと多くの者が想像する。いわゆるジェンダーバイアスだ。この文章だけでは性別は分からず、Aが女、Bが男、Cが母親という解釈もできるし、AもBも男、Cは母親という解釈もできる。ところが多くの者が無意識のうちに、恋するのは若い女、アンドロイドを破壊するのは父親というステレオタイプの発想をする。だが、ここで「多くの者がAとCが男、Bが女だと考える」という判断は筆者の偏見かもしれない。そこで多数の被験者を集めてA、B、Cの性別を尋ね筆者の考えが正しいか否かを確認することは意義がある。この問題は哲学というより社会学や心理学の問題だと言われるかもしれない。しかしジェンダーバイアスは哲学的にも興味深い問題で、また本事例は言葉の意味を考察するうえでも哲学的価値がある。それゆえ多くの被験者の傾向を調査することで哲学的探求を深めることができる。 この事例にはジェンダーバイアスや言葉の意味に関する問題だけではなく、親Cの行為は正当か否かという倫理的な問題が含まれている。アンドロイドは機械に過ぎず人間らしく作られているとしてもCの行為は単なる器物損壊に過ぎない。だが、それでよいのだろうか。さらに、人間に恋心を惹き起こすようなアンドロイドを市場に提供することが倫理的に許されるのかという問題もある。筆者は親CはBに事情を説明し別れるように説得するべきで、Bの了解なく破壊するのは不適切だと感じる。しかしCに器物破損罪以上の法的罰則を科すことには同意できない。また、このようなアンドロイドを市場に提供することは様々な問題を惹起するから法的制約が欠かせない。しかし、これらの意見も筆者の偏見かもしれず、被験者を集めて調査分析する価値がある。国を超えて調査できれば、国や地域による思想傾向の違いを明らかにすることができ学問的に大きな意義がある。 このことは実証的な哲学は可能であり意義があることを示唆している。情報ネットワークの発展で市民が自由に意見交換できる現代、思弁ばかりの哲学では人々の心に響かない。実証的な哲学の進展に期待したい。 了
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