☆ 還元論と全体論 ☆

井出 薫

 筆者はすべては物理法則に還元されるという物理主義を批判してきた。世界の各領域にはそれぞれに相応しいモデル・道具があり、物理学が有益な領域もあれば、別の学が必要な領域がある。自然科学でも、生物学などは物理学には還元できない。たとえば地球上の生物進化のプロセス、セントラル・ドグマ、遺伝子の暗号コード、様々な疾患などは物理学で説明できるものではない。

 ところで、物理主義批判、還元論批判をすると全体論を支持していると思われることがある。ここでいう全体論とは、ある対象の構造、機能、運動などは対象を構成する要素のそれから導き出すことはできないとする思想を意味する。たとえば細胞は原子からなる。原子の運動は量子論という物理理論で記述される。還元論では細胞もまた原理的には量子論で記述できるのだが、細胞は膨大な数の原子を含みまた細胞を取り巻く環境が複雑なので量子論から直接、その構造、機能、運動などを導くことができない。だから、やむなく生物学という現象論を使って説明をする。これが還元論の考え方だ。これに対して全体論は細胞にはミクロの原子を記述する量子論には還元できない独自の法則性があると主張する。つまり、独立した原子は量子論で記述できても、原子が集まり細胞が誕生すると、そこには量子論からは導出できない独自の法則性が現れると全体論者は考える。

 物理学者、特に素粒子や宇宙論の理論的研究を行う物理学者は総じて還元論を信じて全体論を否定する。現実的には技術的な困難から物理法則からすべてを導くことはできないが、原理的には物理法則ですべては決まっていると理論物理学者は考える。このような思想を物理主義と呼び、筆者はそれを批判してきた。では、筆者は全体論を支持する者なのだろうか。

 そうではない。筆者は還元論か全体論かという議論そのものが無意味だと考える。還元論者も全体論者も物理法則など自然法則を世界に内在する原理、世界に内在する設計図あるいは運転指示書のような存在だと考えている。そして暗黙の裡に科学とはこの世界に内在する原理を発見する試みだと解釈している。しかし、人間の認識はすべて認識対象とは解消できない差異を有するモデル・道具であり、内在する原理などではない。私たちは物理現象と呼ばれる領域に対しては物理学のモデル・道具を使うし、生命現象を理解するためには生物学のモデル・道具を使う。物理現象でもマクロな領域では量子論の基礎方程式をそのまま使うことはできず現象論的なモデル・道具を使う。要するに私たちは研究対象ごとに適切なモデル・道具を選択して対象を認識する。化学のモデル・道具の中には、量子化学という量子論のモデル・道具から導出されるものがある。地球科学でも地球内部の構造を理解するために量子論を使った研究がある。つまり化学や地球科学のモデル・道具には物理学のモデル・道具から導出されるものがある。このような事例では確かに還元論的な見方ができる。しかし、前述したとおり物理学的なモデル・道具から決して導出されることのないモデル・道具が自然科学の領域においてすら存在する。何を生物と呼び、何を無生物と呼ぶかは物理学では決められない。生物学や生物への私たちの理解を通じて生物、無生物の区別が決まる。それを出発点にして初めて物理学は生物と無生物の物理的な構造や運動の違い等を解明することができる。物理学そのものは生物と無生物の区別を説明することはできない。生物界は生物学や医学の世界であり物理学はそれを補完する手段に留まる。さらに人間の意識や社会を物理学のモデル・道具から導出できないことは言うまでもない。このような事例をみると還元論ではなく全体論が正しいと思いたくなるかもしれない。

 だが、還元論も全体論もモデル・道具の間の関係に過ぎず、世界そのものの在りようを示すものではない。モデル・道具は人間が世界の様々な領域や現象を理解、説明、予測、解釈するためのモデルであり、またそれを用いて世界に働きかける道具として存在する。それは認識を得る対象、働きかける対象そのものとは解消できない差異がある。モデル・道具は世界そのものとはなりえない。人間は世界の(ごく小さな取るに足らない)一部に過ぎず世界そのものには決してなりえない。それゆえ、私たちの認識や実践は対象との関わりにおいて得られるモデル・道具の生成・修正と活用という形態で遂行されるしかない。認識されたモデルはそれ自身が実践(その中に新たな認識の獲得を含む)の道具となる。だからモデル・道具なのだ。モデル・道具は対象そのものとは解消されない差異があるから常に恣意性がある。非相対論的量子力学のモデル・道具にハイゼンベルグの行列力学とシュレディンガーの波動方程式という一見独立した形式があり、場の量子論に正準量子化と経路積分という形式があるように、モデル・道具には恣意性がある。それゆえ様々なモデル・道具の間の関係にも恣意性がある。結果、ある場合には還元論的な見方が有効な場合があれば、全体論的な見方が不可欠な場合もある。量子化学のモデル・道具などが前者の例であり、生物と無生物の区別など生物学の様々なモデル・道具が後者の例となる。

 このように、還元論も全体論もモデル・道具の関係性の解釈に過ぎない。それゆえ恣意的且つ便宜的なものに留まる。学問的探究を含め日々の活動において、私たちは還元論か全体論かなどという問題を気にすることなく概ね適切な判断と行動を取っている。還元論か全体論かという議論は、世界のすべてを説明し尽くしたいという野心を持つ一部の哲学者や物理学者が抱く疑似問題に過ぎない。ただ量子力学に基づく量子化学を展開して化学現象をよりよく理解できることがあるように還元論的な発想が役立つことはある。また、「木を見て森を見ず」という例えがあるように全体論的な見方が欠かせないこともある。生態学などはその典型だろう。部分に固執しては肝心の全体が見えない。だが、それだけのことなのであり、還元論か全体論かという議論は大した意味はないし、答えが得られることもない。
(注)自然科学、工学、医学などいわゆる理系の学のモデル・道具で物理学を参照しないものはほとんどない。それゆえ物理学が極めて有益で普遍的な性格を持つモデル・道具であることは当然に認められる。しかしながら、このことは物理学の基礎理論からすべてが導かれるという物理主義を帰結しない。筆者はこの根拠のない物理主義という哲学的思想を批判しているのであり、物理学が極めて重要であり普遍的性格を持つことは決して否定しない。ただし、物理学を除く学のモデル・道具が参照するのは古典物理学や半古典物理学が多く、しかも状況に応じて近似的に利用されることが多い。場の量子論や一般相対論が直接参照されることは多くない。このことも還元論や物理主義が不適切であることを示している。

(補足)  モデル・道具論でいくつか注意してもらいたいことがある。まずモデル・道具は決して人間の意識や脳に表象される存在ではないということだ。対象が意識に反映され、そこからモデル・道具が構築されるという素朴な反映論は正しくない。科学的な認識では、人間は様々な道具(観測装置、実験装置、データ、共同体内で共有される既存の理論、さらには他者とのコミュニケーションなど)を使って認識を獲得する。対象への直接的な意識だけでは私たちは決して適切な認識へと至ることはない。つまり認識を得るため(=当該対象のモデル・道具を生成するため)には意識の外部に存在する共同体で共有されている何らかのモデル・道具が必要となる。また、モデル・道具の外部性から、モデル・道具自身が研究対象として新たな認識(=新たなモデル・道具生成)の対象となる。さらに、モデル・道具の外部性からモデル・道具論はカントの理性批判による認識論とは全く異質な理論であることが示される。次に、モデル・道具論は決して不可知論ではない。モデル・道具は対象との間に解消できない差異があると再三再四述べてきた。これは対象そのものは認識不可能だと主張していることにならないだろうか。カントが物自体は認識不可能だと言ったように。そうではない。当たり前のことだが実在する太陽そのものと太陽の認識は異なる。太陽の構造や活動を理論的に説明するモデル・道具は太陽そのものではない。また、太陽の構造や活動を調査するための様々な装置や施設はもちろん太陽そのものではない。対象との間に解消できない差異があるということはただそのことを意味しているに過ぎない。決して太陽そのものは認識できないと言っているのではない。太陽は認識できる。太陽の適切なモデル・道具により。


(2024/5/13記)

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