井出 薫
技術には知とモノの両面がある。機械や道具はモノであり、機械や道具とは異質な存在だがソフトウェアも一つのモノとしてある。一方、技術にはこれらのモノを制作したり、使ったりする知がある。知がなければ技術的なモノはないし、使いようがない。 原初的な技術、たとえば大工道具で小屋や棚などを作るときには、モノと知は分離されていない。知は道具を直接的に表現し、道具は知を体現している。たとえば金槌は人間の身体活動(物を叩く)の延長であり、まさに知(金槌を作る、使う)はモノ(金槌)の表現であり、同時にモノは知を体現している。 しかし、現代技術の多くは原初的な技術を遥かに超えており、モノと知は分離されている。たとえばスマホには無数の部品やソフトウェアが使われており、部品にはレアメタルなど多様な原材料が含まれている。原材料は世界の様々な地域で鉱山労働者が道具や機械を使って掘削した鉱石を製錬・精錬して得られる。その過程では様々な技術(道具や機械、それらを操る知)が駆使されている。さらに原材料からスマホという完成品が出来上がるまでの工程ではさらに一層多様で複雑な技術が使用される。ソフトウェアはハードウェアほどは複雑ではないが、ごく小さな規模のシステムならばいざ知らず、スマホのレベルになると開発に携わる者は極めて多く、開発に使われるツールも多岐にわたる。スマホという身近でありふれた技術でも、そこで使われている知は膨大で誰一人としてすべてを把握している者はいない。そして、その雑多な知は決して体系化されたものではなく、無数の独立した知からなる。電池なしにはスマホは動かないが電池に使われるリチウムを製錬・精錬する技術とスマホのソフトウェアを開発する技術は全く独立した知であり直接的な関係はない。一方、モノを分解すれば多様なモノの集積であることが分かるが、スマホそのものとしてのモノは一つの統一体であり一つの道具としてある。利用者はスマホで多様なアプリを使っているが、IT機器としてはスマホは一個の統一され自律したモノとして存在している。つまり、現代技術ではモノと知はいずれも細分化されており、知が統一性を失っているために、技術の統一性はモノの統一性・自律性においてのみ保証されている。知は統一されたモノに対して分断されており、その全体は個別的な知の雑多な集合体に過ぎず、統一性、自律性は存在しない。こうして現代技術においては、モノと知は明確に分離される。その結果、スマホやパソコンなどのIT機器はそれがどのように使用されるかは開発者や販売者にも予想が付かない。要するに、技術の統一性・自律性を保証するのはあくまでもモノの統一性・自律性であり、知のそれではない。そこから必然的に現代技術におけるモノの優位性が帰結する。 もちろん、技術におけるモノは技術的な知があって初めてモノとなる。それゆえ、モノの優位性と言っても、それが知を支配する、あるいはその土台であることを意味しない。知あってこその技術であることには変わりはない。だが、それでも、現代社会において、技術はモノの統一性・自律性において人々の信頼を勝ち得ている。IT機器、自動車、飛行機、衛星、家電などすべてモノとして成功し統一・自律していることで、人々はそれを信頼し技術を称賛し政治は技術革新を推進する。 だが、そのモノは原初的な技術における知=モノのように人間の身体に親しいものではない。スマホをいくら使いこなしている者でも、それはその者の身体には似ても似つかぬ疎遠なモノでしかない。そして、無意識のうちにそのような疎遠なモノに引き摺りまわされている。ITの進歩と普及は情報収集を容易にし人々のコミュニケーションを活性化し、人々をより賢明で自由にすると信じられた時期があった。しかし今では幻想に過ぎなかったことが明らかになっている。だが、それは当然のこととも言える。技術進歩と共に知とモノの分離が進み、モノの統一性・自律性で辛うじて知の細分化・雑多化が隠蔽されている現代技術において、人々がそれを自由でより良い世界を実現するために使うことは極めて困難と言わなくてはならない。人は対象とそれを取り巻く環境を知として十全に把握しているとき初めてその対象を自由と善きコミュニケーションを促す道具として活用することができる。だが、そのような環境は現代技術には存在しない。ITは人に自由を与えず、寧ろ人がそれに熱中することでITに自由を与えたとすら言える。 AIが人類を支配するときが来ると心配する者がいる。だが多くの者はそれは杞憂に過ぎないと考えている。筆者も現時点では杞憂に過ぎないと確信している。近年のAIが人間に近い会話ができるようになり、課題によっては人間よりも適切な回答ができるのは事実だが、人間をマインドコントロールすることなどできず、ときどき暴走して困惑させることくらいしかできない。そもそも人を支配するには物理的な制御装置が不可欠だが、警察官のように人の指示なしで状況に応じて的確に人を拘束したり威嚇したりすることが出来且つ広範囲に移動することができる汎用的なロボットなどは存在しないし、近い将来に実現する可能性もない。それゆえAIが支配する世界など少なくとも当面は空想の世界に留まる。ただ、人間と技術の関係を哲学的あるいは社会学的に真摯に検討し未来を展望することは欠かせない。さもないと、杞憂では終わらなくなる可能性がある。事実、私たちは特段意識することもなくいつの間にやら(筆者を含めて)スマホなどのITに雁字搦めにされ、それなしには支障なく暮らすことができなくなっている。 了
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