井出 薫
30年代以降のウィトゲンシュタインはしばしば言葉の使用を言語ゲームとして捉えその恣意性を強調し、恣意性を理解しないことで哲学的思考に混乱が生じると警告した。 ゲームには規則がある。しかし、ゲームの規則もまた恣意的で、ゲームの最中に規則が変わってしまうことがある。さらにウィトゲンシュタインは、規則の解釈は無数にあり、あらゆる行為を規則に合致するように解釈することが可能であることを指摘する。たとえば、左右に通路が分かれている行き止まりで「入口」と書いた標札に右矢印(→)が並記されているとたいていの人は右に進む。だが、矢印は矢印とは逆の方向に進むことを意味すると解釈することができる。その者は左に行く。その者は普通、入口に到達できないが、同じように解釈する者が標札を作ったのであれば、逆にほとんどの者が入口に達せず戻ることになる。通常、そのような解釈は非常識だと言われるが、そう解釈してはならない理由はない。矢印の下に「矢印の向いた方向に進むこと」と明記すれば誤解はなくなると言う者がいるかもしれないが、「矢印の向いた方向」という言葉の解釈に曖昧さが残る。ふつうは「>」ならば右、「<」ならば左と解釈するが、ここでも逆の解釈が可能で、それが誤りだという絶対的な根拠はない。このように、どこまで行っても解釈は確定せず、行為も確定しない。逆に言えば、ウィトゲンシュタインが指摘するとおり、どのような行為も規則に合致させることが出来る。ウィトゲンシュタインは生活形式の一致つまり共同体の合意で問題は解決されると指摘する。つまり、先の例で言えば、左に行った者には「君、入口は反対側」と誰かが指摘することで、その者は「この共同体では矢印の向きに進む必要がある」と学び、その規則に従うことになる。 この規則の解釈の恣意性は、規則の恣意性に繋がる。交通信号で青が進め、赤が止まれという規則は逆にすることができる。ただし、それが共同体において生活形式の一致として、あるいはゲームの規則として認知されている必要がある。さもないと交通事故が頻発することになる。つまり、共同体の合意が規則とその解釈の一義性を保証する。交通信号の規則とその解釈が共有されていることで交通事故が回避される。 規則は恣意的に変わるが、ただ一人の成員の独断で変えることはできない。独裁者でも部下や国民が(たとえ嫌々でも)規則と規則の解釈を共有しそれに従うことがなければ、規則の制定も変更も儘ならない。規則にも規則の解釈にも恣意性があるから独裁者の思うとおりになるとは限らない。独裁者とて万能ではない。 このように規則は恣意的で、それが言語ゲームの多様性に繋がり、創造的な文学の可能性を開く。だが規則の恣意性にも限界がある。人はすべて環境世界の中に在る。自然は絶対的な制約条件で、「毎月、第2水曜日は一切の道具なしで裸になって一日中水中に潜って過ごすこと」などという規則とその文字通りの解釈などは規則として制定できない。そんなことをしたら全員死亡する。また、自然環境ほど絶対的な存在ではないが、共同体の法、伝統や慣習なども強い拘束条件になる。それゆえ、言語ゲームと規則は恣意的ではあるが、人が世界の内に存在することで、自ずと規則の制定・変更には限界がある。ただ共同体的な拘束はそれを超えることが可能で、それゆえ規則変更の限界を為す境界線は流動的で相対的なものとなる。保守派は日本の伝統や文化を盛んに強調しそれを厳守することを求めるが、伝統や文化は変わる。保守派が求める伝統や文化自体がそれに先行する者から変化してきたものなのだ。 了
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