井出 薫
AIが様々な分野に浸透してきている。芥川賞を受賞した小説の執筆にもAIが活用されている。一方で、AIの能力に関して懐疑的、批判的な意見も少なくない。 懐疑的な意見の代表は、AIは言葉の意味を理解していないというものだ。東ロボくんプロジェクトのリーダーだった新井紀子氏は、「現在のAIは数学に基づいて制作されている。数学が扱えるのは論理、確率、統計に限られ、意味を扱うことはできない。人間は言葉の意味を理解して行動しており、数学に基づくAIはその点で人間には及ばない」と論じる。 言葉の意味を理解していないことを主張する論拠としてよく取り上げられるのが哲学者サールの思考実験「中国語の部屋」と記号接地問題だ。中国語の部屋には中国語を全く知らない男が入っている。そこに中国語の文章が書かれた紙が送られる。彼はその意味が全く分からない。中国語であることすら知らない。ただ、部屋には中国語・英語変換表があり、男はそれに従って紙に書かれた中国語を英語に置き換える。そして、置き換えた英語の文章を部屋の外に渡す。この部屋は中国語を英訳する機能を持っているようにみえる。だが、実際は機械的に変換しているだけで、言葉の意味を理解していない。そして、AIについても同じことが言える。サールはこのように論じAIの限界を指摘する。記号接地問題は言葉とその対象との対応付けがAIには困難だということを指摘する。「酸っぱい」という言葉をAIに覚えさせることは容易い。だが、「酸っぱい」という人間の感覚をAIに教えることはできない。AIには人間の味覚がないからだ。AIは、機械を使って人間が酸っぱいと感じるものを化学的に分析し、それが味覚細胞に与える影響とそれに基づく脳内処理を解明し記憶することができる。だが、その知識は人間が持つ「酸っぱい」という感覚とは違う。感覚と感覚を説明する科学的知識とは異なる。それゆえ、味覚を持たないAIは「酸っぱい」という言葉の意味を知ることはない。 これらの議論はもっともらしいが、AIが人間と同等の知的能力を持つことができないことを証明するものではない。数学が意味を扱えないとする考えについては後で論じる。まず「中国語の部屋」を吟味する。この事例では変換表をみて機械的に英語を返すというやり方を取っている。しかし、現在のAIはそのような単純な手法で翻訳をしているのではない。学習を通じて自ら適切な翻訳手法を見出し、それを評価し、よりよい手法に改良するという高度な技術を使って翻訳している。それゆえ、サールの批判は不十分なものと言わなくてはならない。また、人間も無意識的に脳の中に生成された変換表に従って翻訳している可能性があり、人間側から見ても、AIが人間より劣ることを証明していない。記号接地問題についてもAI批判としては不十分だと言わなくてはならない。たとえば、遺伝的要因で生まれた時から味覚を感じることができない男がいたとする。彼は「酸っぱい」という言葉を理解することができないだろうか。そんなことはない。彼は、周囲の者が酸っぱいという言葉を発するところを観察し、どのような食べ物が酸っぱいかを知ることができる。そして、普通の味覚を持つ者と「酸っぱい」という言葉を使って普通に会話をすることができる。確かに彼の味覚は普通の者とは異なっている。だが、そのことを以て彼は「酸っぱい」を理解することができないとは言えない。なぜなら、彼は私たち日本語を使う共同体の中で、何の問題もなく「酸っぱい」という言葉を使っているからだ。その意味で、彼は「酸っぱい」の意味を理解していると言ってよい。ただ、他の者のように、未知の食べ物についてそれを味見して酸っぱいかどうかを判断することはできない。だが、誰でも、他の者には出来るが自分にはできないことがある。それでも、それに関わる言葉が理解できないということはなく、また、その言葉を使用するうえで困ることはない。たとえば嗅覚に障害を持つ者も、他の者が「ガスの匂いがする。注意しろ」と叫んでいれば、そのことを理解し、他人にも注意するように促すことができる。ただ、自分一人では匂いでガス漏れを発見することはできない。しかし、それでもガスの匂いという言葉を理解し使うことができる。ガスメータがガス漏れを示しているとき、彼はガスの匂いがしているはずだと推測し、他人に注意を促し、匂いに気を付けるように忠告することができる。「中国語の部屋」も記号接地問題もAIが意味を理解できず人間に劣ることを証明するものではない。 現代のAIは概念的にはチューリングマシンであり数学に基づくものであることは間違いない。数学が論理、確率、統計を扱うというのも間違いない。だが、数学が扱うことができない「意味」なる者を人間が理解しているという考えが正しいかどうかには疑問がある。私たちは、手書き文字でも、印刷文字でも、ディスプレイ上の表示でも、話し言葉(音声)でも「私は明日、東京駅で午後2時発の博多行き新幹線に乗車します、6号車です」という同じ文章で同じことを伝えることができる。つまり、異なる表記の文章で同じことを意味することができる。ここから、私たちは、言葉の表記つまり形状や媒体そのものではなく、(それを通じて)「意味」を理解している、そして、この「意味」とは普遍的な存在だという思想にコミットし、それが自明の真実と思い込む。しかし、ここには、手書き文字、印刷文字、ディスプレイ、話し言葉、どれでも同じような効果を持ち、同じような反応を相手に引き起こす場合が多いという事実があるに過ぎない。ウィトゲンシュタインは「言葉の意味を知りたければ、言葉がどのように使われているかを調べよ」と指摘し、言語ゲーム、家族的類似性、規則の解釈の不確定性などを論じる中で、超越的で普遍的な言葉の意味など存在しないことを示唆している。それに、言葉の表記の違いで、言葉の効果が異なる場合が少なからずある。電子メールで「私はあなたを心から愛しています」と伝えるのと、顔を合わせて口にするのとでは相手に与える効果は異なる。手書き文字と印刷文字でも効果が異なることがある。前者には心が籠っており後者は籠っていないという印象を与えることは少なくない。これらのことを考慮すると、言葉の表記を超えた普遍的な意味など存在しないと考えることも可能であることが分かる。さらに、それを明確に示したのが、オースティンの言語行為論で、彼は言語とその使用を、約束、陳述、説明、説得、了解などの行為として論じた。彼もまた言葉の普遍的な意味なるものを否定したと言える。チョムスキーの生成文法では意味論(セマンティクス)は基本的に統語論(シンタックス)に還元される。チョムスキーが正しいとすれば、意味は、数学に基づき制作された現在のAIで理解される=計算可能なものとなる。 (注)これに対して、「言葉の効果と意味は違う。効果が違っても意味は同じ、つまり同じ意味が違う効果を及ぼすことがある。『君を愛している』という言葉で、相手が喜ぶこともあるし、馬鹿にされたと怒る場合もある。しかし、どちらの場合も、言葉の意味は同じで、ただ、その意味が状況により異なる効果をもたらすことがあることを示しているに過ぎない。要するに、言葉の効果は違っても言葉の意味は普遍的で、本論は効果と意味を混同している」という反論があるだろう。この点はもっと深い議論が必要であることを認める。ただ、効果を超えた普遍的な意味なるものの存在は極めて疑問だとだけ指摘しておく。少なくとも普遍的な意味の存在を立証する根拠は存在しない。筆者は、むしろ、意味とは効果を通じて二次的に構成されるものに過ぎないと考える。 このように、AIは意味を理解していないから人間を超えることができないという考えには明確な根拠はない。それは普遍的・超越論的な「意味」なる存在を独断的に定立することで生じるドグマに過ぎない。現在のAIが人間知性にできるすべてのことができるようになる可能性はある。 ただ、それはAIと人間知性が同じものだということを意味しない。人間は個体の生存と種の保存・繁栄のために、生物進化の過程で知的能力を獲得した。人間知性は計算やデータ処理、将棋や囲碁を指すために進化したものではない。数学の問題を解くために進化したものでもない。生きるため、種の繁栄をもたらすために獲得した機能なのだ。だから数学が苦手という者も当然に存在する。原始時代には高度な数学など不要で、せいぜい数が数えられれば十分だった。そして、人間は生存のために、自然状態では天敵やほかの集団と争い、餌となる動物や植物を襲い食べてきた。そして、人間の知性はそういうことを上手く行うために発達した。その結果、人間知性は、生存のために不可欠な闘争本能と結びつき、他人を攻撃したり支配したりする手段としても使われるようになった。そのため、近現代においても、科学技術の発展が平和の実現に繋がらず、却って争いの原因になったりしている。一方、AIには生存や種の繁栄などの目的は存在しない。ただ人間の道具として発展してきただけで、自然との相互作用を通じた進化などない。だから、ある意味、そこには純粋な知性だけがある。それは、もっぱら平和で人々の幸福を増進するという目的のためにのみ使うこともできる。AIの進歩で、人間がAIに支配される時代が来ると危惧する者がいる。だが、元来AIにはそのような目的も意思もない。AIは生命体ではないからだ。むしろ、AIには、人間を含めた生物が有する闘争本能とは無縁な純粋な知性がある。それを人間が理解し、評価し、うまく活用することで、戦争やテロ、貧困や格差のない、偶発的な事故などによるもの以外には不幸な者がいない素晴らしい世界を作ることに役立てることができる。ただ、そのためには、まずは人間がより倫理的に高い存在になる必要があるだろう。富や権力への欲求ばかりが高じると、AIの使用が自滅に繋がる。AIが如何に進歩しようと、AIと人間の未来を決めるのは人間であることに変わりはない。また、その意味で、人間とAIの知性には優劣に関わりなく差異は必ず残る。 (注)人間とAIで知性が誕生した経緯が全く違うことから、人間知性には可能だがAIには不可能なことがある可能性はある。ただ、「知性」という概念自体が曖昧だから、人間には可能だがAIには不可能なことがあったとしても、それが明確に知性という名で呼ぶべきものではないのであれば、それを知性の範囲から外し両者の差を解消することができる。しかしながら、知性という名で呼ぶべきものの中で人間にはできAIにはできないことがあるかどうかは現時点では分からない。本稿で述べてきたことは、この問いに「ある」と答える根拠はないということで、逆に、「ない」という確固たる根拠も現状ではない。ついでに言っておくと、知性という名で呼ぶに相応しいことで、人間にはできないがAIにはできることはビッグデータ分析などすでに多数存在する。 (補足) 記号接地問題はAIの限界を示すものではなく、それを以てAIは意味を理解しておらず人間には及ばないとは言えないことを示した。 しかしながら、記号接地問題がAI開発で難しい問題であることは間違いない。先天的に味覚がない者でも「酸っぱい」を理解することができる。「酸っぱい」の意味を理解しているということもできる。ただ、味覚がない者が「酸っぱい」を理解には、普通に味覚を持つ者よりも手間が掛かる。同じように、AIに「酸っぱい」を理解させることにも手間が掛かる。AIに自然言語処理ができるようにするには、人間が学ぶより遥かに大量の学習データが必要となるのは記号接地問題があるからだと考えることができる。ただし、それは決してAIが意味を理解せず特定の領域では決して人間には及ばないことを示すものではない。難しい課題だが解決はできる。 AIと人間の決定的な違いは、その進化のプロセスが違うことにあることは論じた通り、そして、現時点での両者の決定的な違いは前者には身体がないことだ。AIは「書評欄に出ている本を読みたいから書店に行って買ってきてくれ。お金は引き出しに入っているから自由に持って行ってくれ」という言葉を理解し、人間と同じような返事をすることはできる。だが、実際に引き出しからお金を出し、そのお金で書店に行き本を買い、戻ってきてお釣りを返すことはできない。ここが両者の決定的な違いで、現在のAIの限界を示している。現時点でのAIの限界は、言葉の意味が理解できないことではなく、身体がないことにある。そして、まさにそれが記号接地問題に繋がっている。 了
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