井出 薫
量子論では、物理的な状態は重ね合わせで表される。そして、物理的な状態を観測すると重ね合わせた状態のどれか一つが観測され、重ね合わせの状態そのものは観測されない。言い換えると、未来は確率的にしか決定されておらず、観測によりどれか一つの状態になるが、どの状態が実現するかは確定していない。古典物理学では相対性理論を含めて、未来は確定しており、物理的な状態に影響を与えないで観測することができる。しかし、量子論では未来は確定しておらず、観測は物理的な状態を変える。量子論を応用した量子通信では盗聴が絶対に不可能な通信回線が実現できるが、それは観測が必ず物理的な状態を変えるという量子論の性質を利用している。 量子コンピュータでは、この重ね合わせを使って、既存の古典コンピュータとは比較にならないほどの超高速化への道が開かれる。古典コンピュータでは、情報の単位はビットで表現されるが、量子コンピュータではQビットで表現される。32ビットの古典コンピュータでは一度の操作で一個のデータしか処理することができないが、量子系として二準位系を使うと32Qビットの量子コンピュータでは2の32乗個(約43億個)のデータを一度の操作で処理することができる。ただし、このことを単純に考えると、あらゆるデータ処理において量子コンピュータは古典コンピュータを遥かに凌ぐと予想したくなるが、そうはいかない。2の32乗個のデータを操作することはできるが、データを読みだすときには、ただ一つのデータしか読みだすことができない。先に、量子論では観測で重ね合わせの状態のどれか一つだけが観測されると述べたが、まさに、ここに量子コンピュータの限界がある。確かに、2の32乗個のデータ処理が一度で出来るのだが、結果を読み出すとその中の一つしか読みだせない。それゆえ、適切なアルゴリズムを発見し、読みだしたデータが正解であるように工夫する必要がある。そして、どのような問題でも、そのような適切なアルゴリズムを発見できる訳ではなく、多くの問題では超高速化できるアルゴリズムは存在しないと考えられている。量子コンピュータが実現したとしても、古典コンピュータの範疇に属するスーパーコンピュータが不要になることはない。とは言え、インターネットで利用されているRSA暗号は十分な能力を持つ量子コンピュータが実現すれば、簡単に解読することができる。他にも、化学物質の設計、組み合わせ問題など様々な分野で超高速計算を可能にすると期待されている。本格的に実用化されれば、科学技術の世界を一新する可能性がある。 私たちが日常、目にするほとんどすべての事象は古典物理学に従う。半導体素子、レーザー、電子顕微鏡、MRI、超伝導など現代技術の多くに量子論は応用されているが、量子論の世界がそのまま日常に現れることはない。また、これらの技術はすべて量子論を利用しないと正確には理解できないが、古典的なモデルで近似的に表現することはできる。しかし、量子コンピュータや量子通信は量子論を使わないと説明ができないし、量子状態がそのまま現れる訳ではないとはいえ古典物理学では説明不可能な特異な性質を露にする。 哲学者スピノザの思想に傾倒していたアインシュタインは量子論のこの特異な性質に納得がいかず、終生、量子論を不完全な理論だと考えていた。そして、様々な思考実験を提案し量子論が不完全な理論であることを証明しようと試みた。量子論は、決定論と自由意思否定論を提唱するスピノザの哲学思想とは相容れない。アインシュタインが量子論を不完全だと考え続けた背景にはスピノザの思想的影響もあるかもしれない。しかし、アインシュタインが提案した様々な思考実験は、却って量子論の完全性を証明することになった。特に、アインシュタインが同僚たちと提唱したEPRパラドックスは、精緻な実験により、それがパラドックスではなく事実であることが示され、量子論が完全な理論であることを証明した。2022年のノーベル物理学賞は、それを証明した3人の物理学者に授与されている。そして、今ではEPRパラドックスで論じられた現象は量子エンタングルメントと表現され、量子コンピュータを始め量子情報処理において極めて重要な役割を果たしている。量子論は自然現象を最も正確に表現する完全な理論であり、量子コンピュータと量子通信がそれを現実的に証明している。 量子コンピュータが本格的に実用化される日がいつになるかは分からない。だが、その意義は古典コンピュータを遥かに超えた超高速計算を実現することだけにあるのではない。不可解に思える量子論が物理世界を表現する最良の手段であることを証明することにもある。 了
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