井出 薫
因果関係は洋の東西を問わず、世界の出来事の基本的な在り方として認識されてきた。誰もが、何事にも原因があり、結果がある、因果関係は世界の普遍的な在り方だと考えてきた。だが、因果関係とは何かというと、はっきりしない。 新聞の書評欄に目を通し、読みたい本が見つかる。スマホで大型書店の在庫を調べると、在庫が一冊ある。すぐに読みたいので早速外出、書店に向かう。ところが、歩道を歩行中わき見運転の車に突っ込まれ怪我をして入院する羽目になる。さて、私が怪我をした原因は何か。言うまでもなくわき見運転だ。だが、もし新聞の書評欄に目を通さなかったら怪我をすることはなかった。また書店に在庫がなければやはり怪我をすることはなかった。だから新聞の書評欄を読んだこと、書店に在庫があったことは怪我と関係がある。しかし、それは因果関係とは言わない。少なくとも、私の怪我に、新聞社も書店も責任はない。きっかけは書評欄を読んだことなのに、なぜそれは怪我の原因ではないのか。 理由は、書評欄を読むことと怪我をすることは通常無関係だからだ。書評欄を読んだことで外出することになり怪我をしたが、それは不幸な偶然であり、何ら必然性はない。因果関係とは二つの事象に必然性あるいは高い蓋然性がある場合にのみ認められる。車に轢かれればたいていは怪我をする、死亡する場合もある。それは高い蓋然性をもつ。だからわき見運転が怪我の原因と認定される。 全ての出来事は物理法則に従い生起するという考えがある。t=0の初期状態が決まれば、任意のt=Tの状態は決まる。ただし量子論の世界では確率的に決まるので一意的に決まることはない。それでも未来が決まることに変わりはない。t=0をどの時点にするかは任意であり、その後のt=Tも任意に選ぶことができる。すると、私が書評欄を読んだ時刻をt=0とし、怪我をした時刻をt=Tとすることができる。だとすると、書評欄に目を通したことが原因で、怪我をしたことを結果と考えることができるのではないだろうか。つまり両者に因果関係があると。 物理現象は因果関係の典型的な事例のように思えるが、物理学における因果関係は極めて曖昧だ。初期状態は終状態の原因で、終状態は初期状態の結果なのだろうか。違う、そう考えると、書評欄に目を通したことが怪我の原因と考えてもよいことになる。では、物理現象の原因と結果とは何なのだろうか。物理法則に従い物理系は変化していく。だから、そこには原因も結果もなく、変化があるに過ぎない。もし宇宙に始まりがあるのならば、宇宙の始まりを原因と考えることはできる。138億年前に宇宙は誕生したという説が現在の定説だが、宇宙に始まりはなく収縮と膨張を繰り返しているという説もある。だが、138億年前に宇宙が誕生したとしても、それをあらゆることの原因と考えるのでは、因果関係などというものは意味を失う。怪我の原因は宇宙誕生だということになるからだ。しかし私は宇宙に賠償請求をすることはできない。初期状態を原因、終状態を結果と考えると、このように理不尽な結論に陥る。では、物理学において原因と結果は何なのか。物理法則が原因であり、物理状態の変化が結果だと考えればよいのだろうか。だが、物理法則が運動や物理状態の変化を生み出すのではない。運動や変化があり、それを物理法則という形で私たちは認識する。つまり物理法則は原因ではない。それを原因だと考えるとヘーゲル流の観念論になる。また、古典力学が相対論や量子論の近似的な解を与えるように、ほとんどの物理法則は近似的な性格を持つ。だから、なおさら物理法則を原因などと考えることはできない。宇宙には近似的存在者などという者は存在しないからだ。そもそも、そういう風に考えると、すべての責任は物理法則にあり、わき見運転をした運転者に賠償責任を負わせることはできなくなる。 量子論では、観測により波束の収縮が起き、量子状態が瞬時に変化する。それゆえ、観測を原因とすることができそうに思える。だが、観測によりなぜ波束の収縮が起きるのかは分かっていない。アインシュタインは終生、量子論を不完全な理論とみなしたが、現代においても、たとえば一昨年亡くなった素粒子の標準理論を確立した天才物理学者ワインバーグなども量子論には満足していなかった。ミクロ現象の観測結果を量子論が高い精度で説明し予測できるため、量子論の正しさを疑う物理学者はいない。しかし量子論は原理的な面では理解されていないことが多い。そもそも観測とは何かという問題がある。観測とは人間がそれを認識することなのだろうか。それとも観測装置と観測の対象となる量子系が相互作用することなのだろうか。ほとんどの物理学者は後者だと考える。さもないと、人間が絶滅したら波束の収縮は起きないことになるが、それは正に観念論で物理学者の信念に反する。それゆえ、観測を原因、観測結果を結果と捉えることもできない。観測も物理現象の時間的経過の一時点に過ぎないことになるからだ。このように物理学では因果関係という概念は曖昧で、普遍性、必然性、あるいは再現可能性などという言葉で表現されることを言い換えた言葉に過ぎないとも言える。ただし、因果関係には原因と結果が時間的に逆転することはないという含意がある。種を蒔く前に芽が出ることはない。性交に先だって妊娠することはない。原因が結果に先立つことはないという因果関係の大原則は、物理的事象Aと物理的事象Bに因果的連関があり、かつ、ある慣性系で事象Aが事象Bに先行する場合は、任意の慣性系で事象Aは事象Bに先立つことが帰結する。そして、この原則から、特殊相対論では真空中の光速よりも早く移動する物体や情報は存在しないことが導かれる。それゆえ、原因と結果とみなせる事象間の時間順序の固定性という観点は物理学においても大きな役割を果たしている。 ヒュームは、同じ条件では同じことが生起することを人々は日々経験する、そこから慣習として因果関係という概念が生まれたと論じる。因果関係とは自然に内在する原理ではなく、私たちの慣習的な思考方法に過ぎないのだ。カントはさらにヒュームの考えを発展させ、因果関係を人間理性が現象を認識するための悟性概念、つまり理論的な認識の形式の一つだとした。そして、因果関係が普遍的であるのは、対象となる自然が因果関係に従っているからではなく、人間の認識形式が因果関係を含むからだと論じる。つまり人間が現象を認識しようとするときに、対象に因果関係という枠組みを必ず当て嵌める、だから因果関係を見出すのは必然なのだ。マジックと同じように、現象の認識には予め(因果関係という)種が仕込んである。 だが、ヒュームやカントの思想には難点がある。高熱、激しい咳、喉の強い痛み、強い倦怠感、血中酸素濃度の低下をきたした患者を検査したところ、新型コロナウィルスが発見されたとする。私たちは当然に新型コロナウィルスの感染が、これらの症状を引き起こしたと考える。この認識は、私たちの認識形式に基づくものというよりも、患者の体内で起きている現実の出来事を表現したものと考えられる。新型コロナ感染者が診察を受けることなく、そのまま自宅で療養して回復したとしても、つまり誰も新型コロナが感染したと認識していなくても、その人物が新型コロナに感染し、それが原因で高熱などの症状を発症したことに変わりはない。そこには、常識的な意味での原因と結果が存在する。それゆえ因果関係をもっぱら認識する側の人間の慣習や認識形式に帰属させることはできない。 このように、因果関係とはきわめて複雑かつ曖昧な概念と言わなくてはならない。因果関係という概念が使用される分野は、日常生活、倫理、法律、物理学、生物学、医学、自然史、社会史、統計学など無数にある。そして、それぞれの分野でその意味合いは異なっている。本稿で論じたとおり、因果関係という概念には曖昧さが付き纏う。また、因果関係とは人間の認識形式なのか、対象に内在する性質なのかという問題も未解決の問題として残っている。統計分析では複数の変数の関係が単なる相関関係なのか因果関係なのかがしばしば極めて重要な問題になる。つまり倫理、法律、統計、物理学などを筆頭に、「因果関係とは何か」という問いは極めて重要な課題となっている。学的な領域だけではなく、日常生活においても因果関係が何かは極めて大切な問題であろう。このように因果関係については議論すべきことがまだまだたくさんある。この事実を反映して、「因果関係とは何か」という問いは、哲学だけではなく多くの分野で、現在でも活発に議論がなされている。 了
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