☆ AIは嘘をつけるか ☆

井出 薫

 嘘とは何だろう。間違ったことを言うことと嘘をつくことは違う。日本の首相は誰かと尋ねられ「菅義偉」と答えても、嘘とは限らない。本当にそう信じていたのかもしれないからだ。その場合は嘘をついたのではなく、間違った考えをもっていたということになる。ここで判定が難しいのが本当にそう思っていたかどうかだ。つい最近、本人が日本の首相は岸田文雄だと話していたという事実が確認されれば、嘘をついた証拠になる。だが、勘違いで、ときたま菅と答えてしまった可能性は否定しきれない。一方、間違った考え、たとえば首相は菅義偉だという考えを持っており、「日本の首相は岸田文雄だ」と答えた場合は嘘をついたことになる。だが、偶然とは言え「岸田文雄」という答えそのものは正しい。つまり、正しく答えたからと言って嘘をついていない証拠にはならない。

 それゆえ、AIが嘘をつくことができるかという問いに答えるのは容易ではない。間違った答えが返ってきたことは嘘をついた証拠にはならない。正しい答えが返ってきたとしても、嘘ではないとは言えない。同じ質問を繰り返して、答えがまちまちであれば嘘をついていると言えなくはない。だが、質問を受けるたびに乱数を発生させて偶数ならば正しい答えを返し、奇数ならば間違った答えを返すようにプログラムされているとしたら、AIは嘘をついていることになるだろうか。プログラムに従い動作したに過ぎないのだから嘘をついたとは言えない。嘘をつくということは、主体的・意図的な行為に属する。乱数を発生させて、その結果で回答を変えることを主体的・意図的な行為とみなすことはできない。

 嘘をつくことができるか否かという問いが意味をなすのは、自由意思を有する存在だけだという思想がある。カントは、自由意思を承認し精神の自由を重視する。人は自らの信じるところを正直に述べることができるし、嘘をつくこともできる。また、嘘をつくときには何らかの嘘をつく動機がある。カントにとって正しい行為とは、行為の結果や効果を考慮することなく正しいことを実践することを意味する。理性を持つ者は正しいことは何かを知り、それを実践する。そのとき、精神の自由が真価を発揮する。だから、カントにとって嘘は決して許されないことだった。嘘は何らかの動機に支配されて精神の自由を放棄することになるからだ。結果を考慮せず正しいことを行うときにこそ精神の自由はある。要するに、カントにとって、嘘は自由意思を有する者にのみ現れるもので、また、何らかの動機に基づいてなされるものと捉えられている。この考えは、自由意思の存在と主体的・意図的な行為とを対応付ければ、上の議論とも一致する。それゆえ、カント的な立場をとると、AIは嘘をつけない。自由意思を欠くからだ。

 だが、人には自由意思がありAIにはないという根拠はどこにあるのか。そもそも自由意思なるものが本当に存在するのかと疑うこともできる。事実、スピノザやニーチェは自由意思を否定している。自由という概念は極めた多義的で、その本質を明確に定義することはできない。人には自由意思がありAIにはないというのは、私たちがそう考えている、そう考えることにしているという以上のことを意味しない。そう考えることもできる。ただ、そうだとすると、AIだけではなく実は人も嘘をつくことはできないということにならないだろうか。そうなると、嘘という言葉には実質的な意味がなく、ただ他人を批判するためのレトリックに過ぎないということになる。偽証罪なるものは意味がないということにもなりかねない。AIが嘘をつけるかという問い自体には大した意味はない。ただ、この問いには、嘘という概念の持つ不可解さを明るみに出すという哲学的な効果がある。そして、それは倫理的な意味がある。


(2023/9/17記)

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