☆ 自動運転自動車の倫理問題 ☆

井出 薫

 哲学ではトロッコ問題がよく取り上げられる。線路上を列車が暴走している。その先では5人の作業員が線路作業をしている。作業員たちは列車が暴走していることに気が付かない。このままでは5人は轢かれて死ぬ。だが、切り替え機を操作し別の線路に列車を誘導すれば5人は助かる。だが、別の作業員1人が切り替え先の線路上で作業をしており、切り替えるとその者が轢かれて死ぬ。さて、切り替え機を操作することは許されるか。これがトロッコ問題で、意見が分かれる。また、跨線橋で線路を眺めている大男を線路上に突き落とせば5人を助けることができるとすれば、突き落とすことは許されるか、という別バージョンもある。最初の事例では許されるという意見が多いが、後者の事例では許されないとする意見が多いと言われる。両者とも5人を助けるために1人を犠牲にするという点では違いはない。ところが、二つの事例で人々の意見は異なる。いずれにしろ、トロッコ問題で意見の一致をみることは難しい。

 トロッコ問題は、現実には遭遇しない、架空の事例だと考えられていた。だが、自動運転自動車が実用化されつつある現在、これを哲学の練習問題、架空の事例とばかりは言えなくなっている。

 自動運転自動車が走行中、突然、5人が道路に飛び出してきたとする。ブレーキを掛けても間に合わず、かといって対向車線には車がいて、そちらへは動けない、残された手段は歩道に乗り出すしかない。だが、そうなると、通行人1人を轢くことになる。さて自動運転自動車は歩道へと向きを変えるべきだろうか。

 5人は車道に飛び出すという違法行為をしており、事故の責任は本人たちにある。一方、歩道を行く通行人には何の罪科もない。だから、ブレーキをかけ、警報を鳴らすだけで直進するというのが答えとなろう。轢かれたら必ず死ぬわけではないこともこの見解を支持する。だが、5人がボール遊びをしていた幼稚園児だったとしたら、どうだろう。小さな子どもに不法行為責任を負わすことはできない。だからと言って、歩道の通行人を轢くことが正当化されるとは言えない。店で爆発が起き、被害を逃れるためにやむなく5人が車道に飛び出した場合はどうだろう。この場合、5人の行動は不可避であり不法行為を犯してはいない。それでも、自動運転自動車は直進すべきだろうか。また、降雨でタイヤがスリップし、直進した場合、横断歩道を横断中の5人を轢くことになる場合も直進するべきだろうか。

 現実的な問題となりつつあるトロッコ問題だが、簡単には答えは出せない。一般的な指針を作ることも容易ではない。特に現実的に起こりうる事象を考えたときに、二つの点が大きな論点になる。まず、5人に責任があるかどうかが問題になる。最初の例では、飛び出してはいけない車道に飛び出したことから、轢かれても責任は自分たちにあると言える。これは人が運転する自動車でも同じで、運転者は警報を鳴らしブレーキをかけていれば、罪に問われることはなく、賠償責任も生じない。だが、ほかの事例では、5人には責任がなく、5人を轢くか、1人を轢くかというトロッコ問題的な判断が迫られる。さらに、幼稚園児の場合、責任能力が乏しく、大人と同じに考えてよいのかという問題がある。哲学の問題としてのトロッコ問題では5人を轢くよりは1人だけで済む方がよいという功利主義的な判断が妥当するとしても、現実的な事例では5人に責任があるかどうかを瞬時に判定することはできないから、安易に5人を助ける方を選択する訳にはいかない。次に、結果が予測しがたいという問題がある。直進したとしても、5人が必ず死亡するとは限らない。5人とも無傷、軽傷で済む可能性がある。一方、歩道に乗り出せば、車が来ることを予想できない通行人が死亡する可能性は高い。哲学的な問題としてのトロッコ問題は、5人が死ぬか、5人を助けるために1人を死に追いやるかという単純な想定がなされており、それゆえに、5人が死ぬよりは1人が死ぬ方がよいという功利主義的な判断が可能だった。しかし、現実の事例ではそうはいかない。5人のうちには、気が付き逃れる者もいるし、轢かれても軽傷で済む者もいる。一方、歩道に突っ込めば、通行人が死ぬ確率は高い。さらには、歩道には一人しか通行人がいなかったが、1名を轢いただけでは止まらず店に突っ込みそこで複数人を死に追いやる可能性もある。つまり、被害を最小化する方法が何かは簡単には判断することができない。いわんや現実の事故では瞬時の判断が必要だから、なおさら難しい。それゆえ、哲学的な検討だけで結論を出すことはできない。

 自動運転自動車は実用化に向けて着々と開発が進んでいる。自動運転自動車が、ここで論じているような事象に遭遇した時、どのように動作するかはプログラムにより決まる。それゆえ、プログラム設計をする者は、この問題に一定の回答を与えなくてはならない。おそらく、警報を鳴らし、ブレーキをかけ直進する、ただ、歩道に誰も通行人がなくそこに乗り出せば、被害を最小化可能と判断できる場合だけ、車の向きを変える、という風にプログラムすることが現実的だと考える。ただし、ブレーキが故障したときは歩道に乗り出すことが最適解と判断できる場合があるだろう。(注)
(注)現在主流のディープラーニングなどの自動学習機能を使うAIで、自動運転の制御を行うと、プログラムする者の意図とは別の動作をする可能性がある。つまり自動学習機能のAIには予測困難性が付き纏う。自動学習機能をベースとする自動運転自動車には、この予測困難性という問題があることを忘れてはならない。

 哲学的な架空の問題だと思われていたことが、テクノロジーの進化で現実的な問題になっている。また、同時に、抽象的な次元で物事を考える哲学の限界も明らかになる。現実は抽象的な哲学的・思弁的世界とは異なる。AIが普及する現代、哲学は工学、自然科学、社会科学などと協同して学際的な研究を行う必要がある。


(2023/7/17記)

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