井出 薫
存在には、現実存在(実存)と本質存在という二つの面がある。これを指摘したのがハイデガーだ。サルトルはハイデガーに触発されて、「実存は本質に先立つ」と論じた。ただし、ハイデガーはサルトルの主張には同調しない。ハイデガーにとって、実存と本質存在は存在の持つ多様性を示すものであり、順序付けするものではない。そこで、実存と本質存在について考えてみる。 アリストテレスは物事には4つの成因があると論じた。たとえば机を考えてみよう。机は読書をしたり、食事をとったりするのに使われる。これは机の目的あるいは機能と言ってよい。これが目的因になる。机には机特有の形状がある。それは設計図を想像すればよい。これを形相因と呼ぶ。机を現実のものにするには材料が必要だ。木材や鉄材が該当する。これを質料、質料因などという。設計図と材料が揃っても、それを現実化するには作業が必要で、それを作用因という。目的因、形相因、質料因、作用因、この4つの成因が揃って物事が成立する。アリストテレスは、この中でも形相(エイドス)を最も重要だと考える。アリストテレスの師、プラトンは、目に見える物事は、形而上学的世界に存在するイデアなる真実在の模造だという思想を展開した。そして、目には直接見えないイデアを探求することが哲学者の使命だとした。アリストテレスはプラトンのイデア論を批判し、形而上学的なイデアではなく、形相に物事の本質をみる。そして、それを探求することが哲学者の使命だという。ここで、机は人間が制作した物だから設計図は簡単に手に入る。だが、自然に在る様々な存在者、人間を含む動物、植物、山河などの自然物の設計図は容易に手に入らない。目を凝らして物を見るだけでは決して設計図は見えてこない。それゆえ、アリストテレスにおいても、プラトンと同様に、哲学者の探求の対象は形而上学的な存在者であり、哲学は形而上学となる。ハイデガーは古代ギリシャ以来の西洋哲学の歴史は西洋形而上学の歴史だと考える。そして、形而上学的な本質存在を求める西洋哲学を根底から批判したのがニーチェだとして、ニーチェを高く評価する。サルトルやサルトルを批判する構造主義者やポストモダニストもニーチェを高く評価する。その評価のポイントは形而上学批判にある。 プラトンのイデアも、アリストテレスの形相も、存在の本質、本質存在に属する。哲学とは形而上学つまり感覚で捉えられない本質存在を求める学であり、それを求めることが哲学者の使命と考えることが西洋哲学の歴史だった。その原点である古代ギリシャにおいては、哲学は学そのものを意味した。そこでは論理学、数学、物理学、化学、生物学、倫理学、政治学、経済学などすべての学が哲学だった。だが、近代に入り、数学や物理学などの個別科学が発達して、哲学を超える学の体系を構築するようになる。カントはこの状況を認めて、哲学の任務を再定義する。個々の存在者の本質は、存在の領域に基づき、個別科学が認識する。物理現象は物理学が、生物現象は生物学が、政治は政治学が、道徳や倫理は倫理学が、それぞれの研究領域に属する存在者の本質を探求する。哲学がすべての学を包含することはもはや不可能になる。哲学者に宇宙の法則を尋ねても正しい答えは返ってこない。それでは哲学の使命は何か。それはどのようにすれば正しい認識を得て、正しい行為ができるかを探求することだとカントは考える。個別科学は、研究対象の真理=本質を探求する。だが、個別科学は、その探求の根底に在る認識様式には無自覚のままに留まる。それは個別科学はすべて実証科学で経験に基づき真理を探求するからだ。だが、カントによれば、経験が成り立つ条件を経験は教えることができない。経験とそれに基づく理論が成り立つためには何が必要か。それは経験を超える(あるいは経験に先立つ)領域を探求することで初めて答えることができる。カントはその試みを超越論的(transzendentalの訳、「先験論的」と訳されることもある)と呼び、この課題を忘却している既存の独断的な哲学を根本的に批判するという意味で批判哲学として展開する。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』この三批判で、カントは新しい哲学の姿を示す。だが、それは形而上学を否定するものではなく、新しい形而上学の到来を意味していた。なぜなら、カントの哲学は経験を超える世界の探求つまり形而上学的探求=形而上学だからだ。カントが求めたものも、形而上学的な真理=本質存在だった。 カント哲学は後世の西洋哲学に決定的な影響を与えた。今でもカントこそ西洋哲学の頂点だとする哲学者が多数いる。カントに続くヘーゲルやフッサールなどのドイツ観念論の系譜も、英米の論理実証主義や分析哲学の系譜もカントを批判しながらも、カント的な問題設定=カント流の形而上学において理論が展開されている。つまり、カント以降の哲学も、その根底においては本質を探求するものとして存在する。 だが、人間は本質存在に還元される存在ではない。人間は、哲学に無関心な者でも、自分の生に何か意義があるのか、自分の存在に何か理由や意味はあるのかと考えることがある。誰もがいずれは死んでいく、それを考えると、生きることに何か意義があるのか、自分のしていることに何か意義があるのかと自問したくなる。そして、どうしても、生に特段意味などない、自分のしていることなどすべて偶発的なことに過ぎず、本質的な意味はないと思い込むことがある。いわゆるニヒリズムだ。成功者は自分の業績を自信満々に語る。だが、その人物がいなければ、その業績が実現されることはなかったのだろうか。誰か他の者が同じことをしたのではないか、あるいは成功しているように見えて、本当は意味のないこと、むしろ長い目で見れば世界を悪くすることをしたのではないかと疑うことができる。アインシュタインは自分が居なくても特殊相対論は誰かが発見しただろう、だが一般相対論はそうではない、つまり自分がいたから一般相対論は世に出たと誇っていた時期がある。だが、実際は、ヒルベルトが同時期に一般相対論にほぼ等しい理論に到達している。ニュートンの微積分は、より洗練された形でライプニッツも発見していた。ダーウィンが突然変異と自然淘汰による進化論に到達したとき、ウォレスも同じ結論に到達していた。どのような革命的な理論でも、誰か一人だけの頭に浮かぶものではなく、時代背景のもとで様々な者の脳裏に去来する。バッハ、モーツァルト、ベートーベンがいなければ、彼らの作品は誕生しなかったかもしれない。だが、他の者が彼らに与えられた栄誉を手にしていた。そして、他の作品を人々は愛していただろう。要するに、いかなる天才も、時代の要請が生み出した者であり、彼あるいは彼女だけに与えられた特権でも使命でもない。天才は後付けで慣習的に天才と呼ばれるだけで、天与の存在者ではない。そのことを考えると、人間は本質を欠き、ただ不安の中で実存するだけで、そのことに常に苛まれる存在であるという可能性に気づく。人間とはそういう存在であることを象徴的に表現したのが、キルケゴールであり、ニーチェだった。 ハイデガーは二人の主張の重要性を認め、存在の二つの側面に着目して、存在を議論した。そして、存在と生成、存在と思惟、存在と当為など伝統的な哲学的課題を新しい観点から探求する。そして、これら二分法の背景にある形而上学を批判的に論じる。だが、ハイデガーの探求は完成することはなかった。主著『存在と時間』の初版では、将来書かれるべき第二部で、古代ギリシャ以来の西洋形而上学の存在了解を根底から転換することが予告されていた。しかし、それは成就せず放棄された。そもそも古代ギリシャ以来の形而上学、そこに在る存在了解を根底から覆すという試み自体が形而上学であることを免れなかった。 ハイデガーの試みは未完に終わったが、その思想は、フランスを中心とするポストモダニズムに継承された。存在と生成、存在と当為、存在と思惟との対立は、ヘーゲルにおいては弁証的に統一されることになっているが、ハイデガーはそれを否定する。それは伝統的な西洋形而上学の体系に過ぎないとハイデガーは看破する。それは存在=本質存在とする西洋形而上学の一亜種に過ぎない。ハイデガーの晩年の存在への思索は見かけはヘーゲルに似ているが、その根底に在る思想は全く正反対だ。たとえば存在と思惟はヘーゲルでは絶対的精神の頂点である哲学において調和し統一されるものとされているが、ハイデガーはそれを否定し、存在は思惟から自らを隠蔽し未来へと進んでいくと考える。存在は単なる本質存在ではなく実存でもあるからだ。そして、ハイデガーの意図を汲んでヘーゲル的統一を否定する根拠を示しながら、脱構築として自らの思想を表現したのがポストモダニズムの旗手だったデリダだ。デリダの脱構築もまた一見してヘーゲルの弁証法に似ている。だが、両者は見かけの類似性にも拘らず真逆のものと見なす必要がある。 実存と本質存在という二重性、それをはっきりと見出したのはハイデガーやポストモダニズムの功績だ。サルトルはその内実を誤解していたが、それでもその精神を受け継ぎ、一時期、一世を風靡する哲学を展開した。だが、結局のところ、この二重性をより深く探求することは誰にもできていない。ハイデガー、ポストモダニズムの系譜とは別の系譜に属する英米で主流の論理実証主義から分析哲学という潮流でも、形而上学批判が主題目となってきたが、それはカント以前の形而上学の批判になっているだけで、カントの形而上学の決定的な批判にはなっていない。それはカントの形而上学の修正版でしかない。ローティなど米国のポストモダニストは、直接的な形而上学批判ではなく、哲学そのものを放棄することで、形而上学批判を展開しようとした。これには後期ウィトゲンシュタインの影響が強く反映されている。だが、現代においても相変わらず、哲学へのニーズは消えることなく、何か事あるごとに哲学が求められる。そして、そこで求められるのは、真理=本質=形而上学だ。おそらく、形而上学としての哲学は不毛なのだが、それでも人はそれを手放すことができない。それは、人間は常に自分、あるいは自分たちの時代という存在が無意味ではないか、意味があるように見える場合も、単なる錯覚ではないか、あってもそれは有害なものなのではないかと悩む宿命にあるからだと思われる。つまり本質を見出すことで不安に苛まれる実存から逃れたいのだ。だから、宗教と哲学は消えることはない。哲学が消えるためには宗教が全面的に人の心を支配する必要があり、宗教を消すためには人々の頭に哲学を全面的に展開する必要がある。だが、どちらも可能ではなく、また望ましいことでもない。たぶん、これから先も哲学と宗教が共存し続ける。そして、不毛な問いではないかと疑いながら、本質存在と実存の問題に悩み続けることになる。ただ、それは悪いことではないと思われる。 了
|