井出 薫
話し言葉にこそ真理が現れ、書き言葉は話し言葉の補助、記録のための道具に過ぎず、話し言葉に現れた真理は書き言葉では失われるという思想がある。デリダは、このことを話し言葉優位主義と称し、その背景には西洋が表音文字を使っている事実があると指摘している。ヘーゲルは表音文字こそ最も理性的であると語っているが、そこには話し言葉の優位性というイデオロギーが漂っている。だが、話し言葉にこそ真理が現れ、書き言葉は補助的なものという思想は表意文字を使用する中国の古典にも現れている。王が書物を読んでいるところに賢者が現れ、何を読んでいるのかと尋ねる。王が古の賢者の書を読んでいると答えると、書物は賢者の思想の残滓に過ぎず、そこから本当に学ぶべきものはないと忠告したという。中国でも、話し言葉にこそ真理が発現するという思想がみられる。 人は対面で会話をするとき、教室で教師が生徒に教えるとき、話し言葉と共に、身振り手振りで理解を促し、同時に聞き手の表情や身振りから気持ちを読み取る。こうして、相互理解を深めることができる。それに引き換え、書き言葉では、多くの有益な情報が失われている。書いた者が不在になると内容の真偽すら判断できない。歴史を知ることが難しいのは、記録が残っていないことと同時に、記録そのものが真理を喪失していることによる。それゆえ、話し言葉において真理が現れ、書き言葉では失われる、という思想には一理ある。 だが、このような話し言葉にこそ真理が現れ、書き言葉ではそれが失われるという考えは必ずしも常に正しいとは言えない。真理とはそれが再現可能であることによってはじめて真理と言える。真理とは普遍的なものであり一回限りの真理は真理とは言えない。しかし再現可能であるためには、過去と対照し一致することを確認する必要があるから書き言葉の存在が欠かせない。さらに、幾何学、解析学、物理法則、化学式などは話し言葉では表現できない。ハイデガーは、詩を愛し、思索と同時に詩作の中に存在の真理が現れると語り、伝統的な哲学の役割をサイバネティクスに譲った現代、思索者の使命は、言葉に存在を大切に納め送り届けることにあると論じる。詩は話し言葉で語ることもできるが、送り届けるには書き言葉が必要で、ハイデガーにとっては書き言葉にこそ存在の真理が現れる(注)。 (注)存在と真理は、ハイデガーの哲学では分離出来ない。真理とは存在の現われ、存在が開かれていることであり、存在は真理において現れる。 だが、書き言葉か話し言葉かという、両者の間に優劣をつけようとする思考方法こそがドグマに過ぎない。話すには記憶が必要で、記憶を確かなものにするには書き言葉が欠かせない。だから文字を持たない文明でも、文字の代替物が存在した。話し言葉と書き言葉は対立するものではなく、相互に依存している。そして、両者は身振り、手振り、表情、絵など様々な言語類似物と共に、世界構築に与っている。 了
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