井出 薫
ウィトゲンシュタインは、無限を自然数と同じような数学的な概念つまり実無限として捉えることを否定した。カントールの無限集合論にもゲーデルの不完全性定理にも否定的だった。それはウィトゲンシュタインが数学を道具として扱っていたことによる。人間の道具は有限であり、無限とは、操作(たとえば1を足していく)を限りなく続けることができることを語るものでしかない。ウィトゲンシュタインはこう考えた。 だが、数学を道具と捉えると必然的に実無限を否定することになるのだろうか。無限に大きい工作機械を作ることはできない。モノとしての道具はつねに有限で、無限は操作可能性として理解されるに留まる。だが、数学は道具だとしても論理あるいは情報という世界に属し、工作機械のようなモノの世界に属するものではない。論理の世界に属すると捉えれば、1、2、3と同様に、可附番の無限集合、連続濃度の無限集合、より大きな無限集合などを、一つの存在と捉えることは可能であり、先験的に否定すべき理由はない。事実20世紀前半に確立した公理的集合論は無限集合を適切に扱うことができる。数学では数列や関数列の極限を考えることがよくある。1、1/2、1/4、1/8・・・は0に収束する。そして、0は単に操作の極限を象徴するだけではなく実際に存在する。同じように無限もそれ自体で存在すると考えることができ、単なる操作の名称に留まるものではない。ただ存在する場所が、工作機械とは異なり生産現場ではないということに過ぎない。 ウィトゲンシュタインは、人間の認識と実践がモデル・道具の生成と使用であること、モデル・道具には多様な形態が在ることを見ていない。そのために、実無限を認めることができない。ウィトゲンシュタインは、数学を客観世界の客観的な真理ではなく、道具としてみている点では、おそらく正しい。だが、数学という道具は工作機械のようなモノとしての道具とは異なる性質を持つ。数学は論理や情報という抽象的な性格を持ち、人間がモノ的な世界と関わるときに様々な分野で役立っている。数学はモノ的世界に属していないとしても、それは数学が単なる純粋な概念であることを意味しない。モデル・道具として、特にその道具性においてモノ的世界の操作に役立つ。そして、その事実に基づき進歩してきたものであり、これからも進歩していく。それはモノの世界に直接属するものではないが、そこに根を持っている。無限という純粋に抽象的・操作的に思える概念でも同じことが言える。また、逆に、モノは数学との関連において、合理的に配置され認識される。数学とは単なるモノ的な道具でなければ、単なる概念でもない。 了
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